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競争主義から協力主義へーアドラー [思考・志向・試行]

多くの人は競争主義に生きる。それが現代人だ。そしてそれを当たり前の事として
考えている。だが、そんなものは人類の歴史からみたらごく最近のここ100年程度の
話であって、それまではそういう行動ではなかった。

元来、人は協力して生きる。なぜなら、人は弱いのだ。生物学的にみて、生まれて間もない
赤ん坊は一人では何も出来ない。だからこそ他者の助けを得ることと、他者から見捨てられない
ように行動する。ここに大きな落とし穴がある。

かつてのように人類が貧しいながらも、安定的に暮らしていた時代から、食料生産の充実に
より人は楽に生きられるかのように思えた。農耕や牧畜はそのための技術であったはず。だからこそ、
その余暇として、政治や芸術が生まれた。そして軍隊ですら、余暇であった。余剰の食がなければ、
そんなものを維持できるはずがないからだ。

食を維持するには協力するほかない。それは未開の人々をみれば明らかだ。みんなで狩りにでかけ、
獲物はみんなで分ける。冷蔵庫のない場所では余らせたら、ただ腐るだけだからだ。そして、
協力しあうことが社会的に動機づけられなければ、その集落自体が滅んでしまうからだ。

つまり人は協力を一義的に必要とする生き物なのだ。それは赤ん坊のときから、老人になるまで。
これは人の法則であり、人はそのための能力を持つ。

一方で、人は排他的である。好戦的とも言える。争いを好み、争いに勝つことで集団を維持しよう
とする。その動機は、集団の資源を守ることである。これは一種の縄張りであり、他の集団との
縄張り争いという事だ。これは猿にもみられる行動である。チンパンジーは一生のうち、一度は
殺人に関わるという。集団間の争いは動物界にも存在する。同様に人も集団間の争いを起こす。

争いの根本は、食であろう。また資源であろう。文化を維持するためにはエネルギーがいる。
かつては木であった。木を得るには土地がいる。食の供給が安定化すると、人口が増える。
その増えた人口を支えるには、資源がいる。資源は土地からしか得られない。集団は勢い、
支配領域を広げようとする。こうした結果、どこかで他の集団と小競り合いが生まれるのだ。

動物たちは賢い。縄張り争いで、他の個体を殺す事は稀である。大抵は追い出すのみだ。
ところが人はこの点に関して愚かである。争いに対して武器を用いることで、格段に殺傷
能力を得てしまった。多くの人が殺された。そして、奴隷となった。この中で、社会的階級
という概念が生まれる。誰かは暴力的に他者を従えたわけだ。あらゆる組織とは暴力による。

すると、人は内外に暴力の存在をみる。自己の組織内の暴力と、外部との間における暴力。
暴力により、人は組織維持を図ったわけだが、これは地獄への道だった。なぜなら、暴力で
人は幸福になれないからだ。

現代では、直接的な暴力は存在しない。それは競争主義というものの中に紛れ込んだ。そして
いつでも我々の生活の隅にそれはあり続けるようになった。このような概念をエートスという。
暴力のエートスは競争主義として現代に入り込んでいる。

もちろん、実質的な暴力はある。警察や自衛隊は暴力装置である。ただ日常ではそれらの暴力は
抑制されている。これらはここでは例外として脇においておこう。

さて、競争主義としての社会。この社会では、他者は絶えず敵となる。そして、社会的に肯定
される価値観を度量衡として、人々を競争に巻き込む。この競争により、人々は何を得ているのか。
ひとまずは金だろうか。地位だろうか。名誉だろうか。いずれも、人の幸福とは関係ないものだ。
そういうものは競争主義によって得られるのだが、人類の法則において、そんなもの価値はない。

だが、現代人は時代のエートスに巻き込まれた。暴力によって他者を支配しろというメッセージを
受け取った人たちは、競争主義を肯定する。他者よりも優れた人が生き延びるのだと洗脳される。
考えてみるがいい。競争させられているのはどんな人なのかと。そして競争によって利益を得ている
のは誰なのかを。

受験勉強をし、それなりの大企業に努め、家庭をもつ。これを否定する気はない。だが、この行動は
すべて誰かが提案し、誰かが自分たちの利益のために他者にやらせている事だ。つまり、この王道
こそが、現代の奴隷である。そして非常に皮肉なのは、奴隷になっている本人が奴隷を望んでいる
ように仕向けられているという点である。自分が良い生活を送ろうとすると、多くの人は奴隷に
なる事を肯定するようになる。これはどういうことなのだ?

世間では知られていないような金持ちたちは、資本をもちいて、他者を奴隷化する。奴隷たちには、
競争主義というエートスを植え付ける。互いに競争し、その競争に勝ったものにわずかばかりの
報酬を与える。これを是とするなら、負けたものは安い賃金で働かされる事になる。この小さな
そして、当事者としてとても大きな、というか人生すべての分断によって、資本家による支配が
行われている。資本を持つものが人々を利用することで、その労働に依る生産物をせしめ、利益を
得た後に、最低限の報酬を労働者に配るのである。この意味で、奴隷の頭と底辺の労働者は、
いがみ合うかのように仕組まれ、そこに競争を見出すものたちが、社会制度維持に邁進する。
つまり、自ら奴隷の競争に入り込み、そして奴隷社会を維持し、その中で勝った負けたと戯けている。
これが現代社会の描像である。

あなたがサラリーマンで働いているということは、奴隷である。なぜならあなたの生産物の
大部分は、支配者が奪うのだ。そのような存在になりたいのか?と問いたい。じゃあ、起業する?
これもまた、似たような立場に追いやられる。起業には資本がいる。資本には必ず利子がつく。
この利子を返すべく、日々、仕事に勤しむ。それは社長であっても同じことだ。資本を他者から
得ている限りにおいて、その利子を返すという点において、奴隷になっている。会社を維持するため
会社の借金を返済するため、奴隷を続けることになる。その奴隷から逃れるには、会社の損益を
解消する他ない。それも短期間でやりたい。だが、経済は回っている。稼ぎはどんなに特殊な
技術があろうとも、相場というものがある。だから、一定量しか稼げない。それを上回る稼ぎを
得るには、コストをカットする他ない。規模を大きくするしか無い。コストカットとは、要するに
生産性の向上だ。簡単にいえば、人件費の抑制と、一人あたりの仕事量の増大である。一方では、
設備など生産量の増加には、投資がいる。投資の財源は、これまた借金である。すると、起業家は
ITなどを利用して生産性をあげ、投資をして生産規模を増やそうとする。労働者の立場からみれば、
リストラされ、新しい投資の返済をうめるべく、長時間労働を強いられる事になる。要はブラック
化する。これは、資本主義の宿命である。

サラリーマンでも、起業家でも、資本をもたない限りにおいて、奴隷から抜け出せない。
結局、得た利益はすべからく資本に回すのが現代社会での処世術となる。そこにしか奴隷を
抜ける手段はない。それは日本が資本主義だからだ。たとえ、これがホワイト企業の話でも、
同じことだ。大企業は、組織として中小企業を搾取する。だから、仕事にゆとりがある。そして
そのゆとりをみて、多くの人はそこを目指すのだ。大企業の社員は、おのずと奴隷頭になれる。
でも、奴隷であることは変わりない。少しでもマシな奴隷になりたいというのが、受験の動機
になってしまった。これが教育現場に競争主義を持ち込むことになる。

競争主義はキリがない。そして、時に害悪をもたらす。競争主義に強く侵されると、思想的に
歪む。それはもはや人の本来性から外れてしまう。争いが争いを呼ぶのだ。競争して勝ったと
して、人生はすぐに終わらない。何度も勝負の場面に立たされる。そしていずれ負けるのだ。
勝っているものは、負けることに怯えていなければならない。負けたものは、勝ったものを
恨むことになる。社会は恐怖と恨みの溢れる事だろう。これが資本主義の裏の顔なのだ。

表はいかにはも華々しい。いかにも理想的な社会かのように喧伝される。これは幻想である。
多くの人はそれを望み、それを希望する。だが、そうなれる人はわずかに設定されている。
みんながそうなれるわけではない。なぜなら、誰かの生産物を搾取することで始めて、他者より
多く稼げるからである。誰かの生産物を奪うことでのみ、大きな利益をえる。すべての商売は
この限りではない。だが、社会的なサービス業の大半はこの法則に則っている。一次産業は、
このような枠組みから出ることが可能な数少ない業種と言える。

とはいえ、一次産業の人々も、社会の大勢の人々のルールに振り回される。この部分に軋轢が
生じる。仕方がないことだが、それでもいささかはマシであろう。自然がもたらす恵みを利用する
事。当然、大きく儲けることは出来ない。何か意図的な事をしない限りは。その意味で真っ当で
あり、不幸でもある。だが、この不幸とは人類史的な不幸ではない。現代人の価値観においてのみ
不幸である。そして、むしろ幸福である。

競争主義は、人を幸福にしないのであれば、何を目指すべきか。それは協力主義である。
そう、先祖返りに見えるが、このルールにこそ、人の幸福はある。他者と協力することこそ、
人類の望みになる。これは奴隷という立場でも実行可能だ。会社内においても、協力すること
は可能である。そして、人はその事で、十分に幸福になれる。

会社というものを集団の一つとみなせば、本来的には協力的になるべきなのだ。
だが、競争主義を是とする殺伐とした思想の人々は、この協力的である事が生産性の低下
を招くと誤解している。そして、競争のみが社会の発展を促すと思い込んでいる。

こういう人々は、不幸な人生を送り、他者もまた不幸な人生に追い落とすつもりなのだ。
だから、誰かが幸福にしていると、それを非難し、それを排除しようとする。それはただ、
他者の幸福が怖いのである。

競争主義の人は、恐怖という感情において生きる。そして、恐怖はすぐさま攻撃となる。
(脳は恐怖と攻撃がすぐとなりで処理されることを教えてくれる。)世界が恐ろしいところで
あると認識する恐怖の人は攻撃することで、恐怖や不安を解消しようとするのである。

いつもイライラし、部下を攻撃する上司は、不幸のど真ん中にいる。可哀想な人である。
心休まることがないからこそ、その不安を解消すべく他者へとぶつける。他者をコントロール
することで、自分を安堵させようとする。他者はどう考えても、距離をとり、一緒にいることを
嫌がるだろう。その一方で、同じく競争主義のエートスをもつ人は、このような人にすり寄る。
そうして彼らを安堵させると、気に入られ、彼らの仲間になる。その結果、競争主義の組織は
ますます先鋭化する。組織が不幸で染まってゆく。本人たちはそれで満足しているのだが、
それは見せかけの満足に過ぎない。だが、その小さな満足しか手に入れられない人々が固まって
誰かを攻撃することで、自分の中にある決して解決することのない恐怖から目を逸らすのだ。

まともな人にとっては、これは不幸である。こんな人達に関わるのは時間の無駄である。
競争主義である組織しかまともじゃないと思っていると、一生不幸で終わる。

そろそろ、まともな本当の幸福を目指すべきじゃないか。
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マジで生きてみるー仕事とはー [雑学]

今まで、どこか人事っぽかったが、
なんか気持ちの切り替えがしたくなった。9月になった事だし。

というわけで、食い扶持を確保するために、
仕事というものを真剣に考えてみる。

養老氏いわく「できることをやる」事が仕事らしい。
世の仕事とは、誰かがやらなきゃならないのだから、それを出来る人がやると。

よく分かるのだが、なんかこれに関しては養老フリークとしても、腑に落ちない。
なぜだろう?世の仕事の多くが意味があるなら、同感できる。でも、厳密にいえば、
無意味な仕事が多くないか?だったら、その仕事なんのためにあるんだ?と思うからだ。

たとえば、大量の書類仕事。この書類、どれくらい必要なわけ??
この判子、なんで上司の印鑑が必要なの?不要だなと思うものをやめていけば、
おそらく7割程度の書類で済むだろう。とある書類をつくるため、誰かに向かって
依頼書を書く。その依頼書を受けて誰かが処理を実行するという手続き。要するに
口で言えば、済むことだったり、メールで伝えれば済む話の間に書類書きが存在する。
この手続きは、のちのち誰が何をしたかの記録になるんだろうけど、それ、誰がみるの?
みる必要あるの?そんな時間あるなら、目の前のこと処理した方がいいんじゃないか?
ということで、この依頼書類無駄でしょう。だから、こういう部分はIT化すればいい。

でも、それで困る人たちが出てくる。書類を処理するという仕事の人たちが不要になる。
そうなんだよ、生産性があがるということは、雇用が減るということだ。当たり前の事実。
IT化とか言っているけど、AIなんかよりよっぽどIT化の方が脅威なのに、誰も言わない。
要するに現代で派遣が増えたのも、かつては四六時中書類に向かってくれる人がいなければ、
処理が終わらなかったことが、今はPCで済んじゃうから、その処理が出来る人がいればいい。
そして、それくらいなら、パートで十分でしょとなって、正規雇用が減るわけだ。まさに
IT化の結果だよ。すると、これからの仕事で残り物となるのは、機械が自動化できない、
もしくは自動化のコストよりも低賃金で働く人がいるものだけになる。ようするに非正規化
するわけだ。あらゆる業種がそうなる。それを「生産性の向上」というんだから。
そして、現にそれを目指しているわけだから。それが経営側がやりたいことなんだから。

本来、人はそんな低賃金労働したくない。時間がとられる割に、給料くれないならやめてやる。
そしたら、企業連中は国と結託して、外国人を雇うことにした。もう、相当に移民がいる。
日本人より低賃金で、単純系の労働を行う。これは、言語が話せなくても、作業さえできれば
いいから、外人でもかまわないということだ。まさに、非正規労働よりも、抑えたポジション。

だから、非正規の労働者は、誰でも出来るような仕事をさせられていることになる。だが、
内実は違う。特定の仕事は当然熟練が必要だ。そして非正規労働者がとても戦力になっている
ケースだってある。そういう人は本来、正規雇用すべきなのだが、それをしない方が企業は
良いと思っている。当たり前だ、生産性を下げたくないからだ。正規雇用にはコストがかかる。
だから、そうはしないという事になる。

さて、元にもどろう。仕事とは何か。本来は他者に対する貢献である。人は群れる生き物だ。
その群れの正員になるには、群れに貢献しなければならない。それが分業である。分業する
事で、自分が全部をやるより、効率的に群れが維持される。仕事とはそれを具体化したものだ。
だから、その意味で「できることをやること」という養老さんの話は正しい。ここで肝心なの
は、仕事は金ではないということだ。金を得るために仕事をすると思っているなら、間違えで
ある。金は仕事をしたから、感謝の印として受け取るものだ。つまり、仕事によって誰かを
助けたので、その感謝が金で表現されるという事。これが仕事における賃金である。そして、
仕事が無意味であれば、たとえば、勝手に地面に穴を掘るとか、誰も金をはらうことはない。
これは仕事にならない。誰かが感謝するから仕事なのだ。

その意味では、金が発生しない仕事などいくらでもある。むしろ、そちらの方が多いかもしれない。
そういう仕事をしていて、この人はかかせないと社会がみなせば、その人を生かそうとするだろう。
だから、仕事に価値があれば、その社会が価値を見出せば、その人を生かすようにケアされる
はずなのだ。現代ではそれを金で表現する。

ところが、金は金で独自の性質を持つ。生まれたが最後、金は不滅となる。その不滅さと、
金に与えられた特権によって、仕事の対価に採用された。仕事は本来、価値の源泉であるが、
そこに価格が与えられることになったわけだ。この価格、経済学では市場により決定される
そうだが、そんなものは嘘だ。だから、いったん経済学は忘れてみると、仕事に対する価格は
単に仕事の規模できまる。仕事の内容とか、かかった時間だけでは決まらない。そして、賃金
とは、その金でその人物が労働をやり続けられる程度に渡されるのだ。

もし賃金が少なすぎたら、労働にいけるだけの健康を維持できないかもしれない。そしたら
辞めるだろう。そういう人がおおい職場は、結局、仕事が行えなくなる。つまりビジネスモデル
が破綻しているのだ。それは賃金=仕事の価値ではない。その仕事の再生産に対する対価
なのだ。

一方で、高賃金の人はなぜ高賃金か。それはアウトプットで評価されているから、ではない。
すばらしい決定が出来るからとか、すばらしいイノベーションができるからではない。単に
気分で決まっているだけだ。そして、そのサイズは、生産物の規模で決まる。つまり、大企業
なら、同じような仕事をしても、中小よりも多くの給料をもらう。それは利益の収益構造に差が
あるからだ。

大企業は仕事のコストを外部化する。資金は税金や他社との取引からやってくる。そこから、
中抜きをして、仕事自体は中小にやらせる。その仕事で出てきた生産物をかき集めて製品と
して売る。この規模が大きいほど、利潤が増える仕組みだ。この企業間の構造と同じように、
企業内もまた、同じ仕組みになっている。

大した決定をしない管理職の連中がいる。彼らが決めたおぼろげなプロジェクトを具体化し、
実行するのは若手の人々だ。その人たちは、中抜きされた金額で、労働を提供する。中小と
まるで一緒の構造だろう。そして、いずれは自分たちが出世したら、この構造の上部に入れる
と信じて行動する。実は全員が出世できないが、途中でやめる人がいることが前提なので、
なんとなか仕組みが回っている。この企業内の構造はまだマシかもしれない。

企業間のヒエラルキーは絶対に超えることはない。中小が大企業になる事は、上部に既存の
組織がない業界だけだろう。大企業が一度現れた分野は、中小が大きくなる事は厳しい。
そして、常に中抜きの安い仕事を与えられ続けるのだ。仕事の喪失が怖いので、価格交渉も
ままならない。そこで中小が考えるのは、独自の技術力という事になる。ユニークさがあれば
取引において強気になれるからだ。そういうわけで、中小は必死になる。ところが
イノベーションが起こると、たちまち大企業が現れて買収される。そうして、大企業の支配は
つづいてゆく。

高給取りになりたければ、大企業にいくしかない。大企業にいくには?そうか、学歴だ。
というわけで、勉強に向く人間は、大学へと殺到した。でも、大学は本来、学問する場所。
ビジネスとは関係が無いのだ。ここに社会のねじれがある。将来の仕事を見据えて学校に
行く人は果たして、どれくらいいるのだろうか?

損得で人生を考えると、この世間の仕組みの上部へといく事を考えるわけだが、実際には、
それが達成されるかどうかは運だろう。運のよしあしで決まるなら、自助努力はどこに
いくのか。努力とは、必要があってやる行為である。義務でやることじゃない。

こういう義務に人生を囚われて生きるのは、人生の無駄である。人の生来的な目的は、
衣食住の安定と、仲間を作り、愛に生きることだ。それ以外のことは基本余計なことである。

現代の仕事は、過去の仕事と違う。現代の仕事は金のために仕事があるかのようだ。
これは、幸福とはほど遠い。同じ仕事をするにしても、金のために仕事をしたら、仕事が
苦痛になることだろう。

大企業や官僚たちは、中抜きしているだけなので、仕事はないはずだ。だから、仕事を
捏造することになる。無意味な仕事の意味はここにある。いかにも仕事っぽい書類作成は、
本来の意味では、仕事ではない。だが、給料は構造上もらえてしまう。その時、後ろ指を
さされないように、仕事のようなものをしてアリバイにするのだ。それが無意味な仕事の
実体である。無価値な書類操作が、あらゆるホワイトカラーの仕事に割り当てられている。
それは、仕事のアリバイ作りなのだ。

新しいことを思いつく事が、経営者とか役員の役割に思えるかもしれない。でも、そういう
事は大抵失敗するのである。なぜなら、それが「新しい」の定義だからだ。昨今では、
失敗は無しになってしまったので、「新しい」は生まれない。そうして日本はだめになってきた。
そもそも、新しいことをやって失敗する事にインセンティブがない。それをやるのは、中小
企業だけだろう。だが、中小はモチベーションがあるが、資金がない。大企業は資金があるが
モチベーションは無い。なぜなら、構造的に儲かるから大企業なのであって、新しいことを
やる意味は小さいからだ。ということで、高給取りの役割というのは、単に年功序列に対する
褒賞であり、かつての自分たちである若者から給与分以上の生産物をひねりだすことである。

給与が良いという事と、能力があるは必ずしも一致しないし、給与が仕事の価値を決めるわけ
でもない。ただ、その業界の単価が高いほうが儲かるし、その分配は多くもらえるというだけの
話である。雇われとはそういう事だ。

んで、じゃあ、自分が何をするのか。やはり雇われから外れてしまいたいし、本来の意味での
仕事がしたい。困っている人を助けることで、他者とつながるという仕事。その人たちと仲間に
なるということ。それが肝心だと思う。

さて、そろそろ仕事、作ってみるか。
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結婚について、ちょっとした異常性 [思考・志向・試行]

https://fromportal.com/kakei/household/life-events/lifetime-unmarried-rate.html

上記は、生涯未婚率の内容だ。
たぶん、一般的な議論は、未婚が増えて大変だという話だろう。
当然ながら、ここではそんな話しをするわけはない。

むしろ、なぜ50年代から90年代まで、ほとんどの人が結婚をしていたか。
それが問題なのだ。昨今の晩婚化や未婚の原因は、金銭的問題と片付けられている。
だが、それは嘘だろう。なぜなら、50年代の方が今より貧乏だからだ。単に金の
問題ではない。むしろ、意識の問題つまり文化の問題なのだ。

もちろん、経済発展に向かう時期と、衰退する時期では同じように貧乏でも、
考え方が変わるかもしれない。人は未来に対する希望が少ない時、子供を産もうとは
思わないだろう。それも一つの要因だが、結婚するかどうかはダイレクトには関係しない。

ということは考えられるのは、結婚が義務か、任意かという事である。

つまりかつての高婚姻率は結婚が義務だった時代の話であり、
現代は、結婚が任意となったという事だ。この任意とはなにか。

人権という概念は日本にはない。人権は思想であるために、日本には人権はない。
その思想が発展した文化がなければ人権など語るだけ無駄である。残念だが、日本には、
そのような文化はなかったし、今もなお、無いといってしまったほうが説明がしやすい。

日本にあるのは、世間という社会規範であって、人権ではない。人権の内容を日本では
世間という規範がすくい取ることで、あたかも人権のようなものが存在している。

この世間という規範は日本文化の特徴であり、人々の生活を規定する意味では宗教である。
この宗教の中に、かつては結婚が刻み込まれていた。それは社会を構成する人になるには、
義務付けられていた。もちろん、建前は「任意」である。しかし実体は強制だ。

かつて若者が兵役に向かわされたのと同様に、日本人は、結婚という強制を受けてきた。
そして、なんなら子供を生むこと育てることまでが、日本人の規範であった。
それが崩れたのが、この20年なのだろう。

ちょっと考えてみればいい。あなたは例えば、電車で横に座った見ず知らずと結婚できる
だろうか。少しは選びたいと思わないか。せめてこうであって欲しいと思うはずだ。なんなら、
もっと可愛い人、かっこいい人、頼れる人、頭のいい人、ステータスの人がいいなと思うだろうか。

義務なのだから、いずれしなくてはいけない。ならば、ましなのを選ぼうというのが、
日本人の結婚に対する直球の概念だろう。だからこそ、釣書が作られるようになったし、
なんなら、家柄も考えただろう。何しろ結婚は、家の存続にとって欠かせないものだった。

これを前提に日本は戦後の社会を構成した。そして、それが続いていると今でもおっさんたちは
思っている。だからこそ「女性は子供を生む機械」とかいう発言が出てくる。それがおっさんたち
の常識であり、かつての意識だったのだ。なぜなら、社会がそれを強制していたからだ。

これは就職も同じこと。みんな働くことを強制される。ならば、少しでも楽に多くを稼げる方が
いい。そのような職につくためには、学歴が高いほうがいい。じゃあ、受験だとなった。社会
秩序が安定すると、社会内部のヒエラルキーにこだわりだす。それはいつの時代も一緒である。

結婚を社会が強制していた時代。当たり前だが、気にいらない相手と一緒になった人は、
それなりにいるのではないか。どれくらいが断れたのだろう。次々に見合いを断ったとして、
相手は必ず見つけなくてはいけない。ならば、それなりの人ならオッケーしたはずだ。
ここに恋愛などはあってもなくてもいい。あったほうがロマンチックだという事なだけ。

こういう時代の人たちの後に、我々が来る。時代は家ではなく、個人になった。西洋的な
個人主義が輸入された。制度だけはどんどん入ってくる。だから、たちまち個人主義という
のが建前になった。だが、人はそんなに変わらない。とりわけ人工の半分以上をしめる大人は
変わらない。だから、個人主義などわかりもしない。社会は相変わらず、結婚を義務としていた。

個人主義の時代の結婚は、自分でなんとかしろという話である。個人主義はある意味で、社会的
な義務の軽減であるはずだ。社会が個人の世話をしないなら、個人は社会に対する義務を負う
理屈がない。だから、社会なんて二の次さんの次という人間が増えた。個人の都合を優先する
時代になってきたのだ。

ならば、世間がもっていた結婚という義務は、個人主義と対立する。当たり前だろう。
家制度の保持のための結婚から、個人の満足という意味の結婚になってきたからだ。
だとしたら、結婚に不可欠なのは、相手との関わりだろう。相手との関わり以外に評価法が
ない。

すると、離婚が増える。なぜなら、人は相手との関わりを数十年に渡って保持するのは無理
だからだ。というか、かつて動物たちで、ヒト以外で一生同じツガイでのみ生きた存在はいない。
一生ツガイを変えないという鳥たちですら、浮気をする。おしどり夫婦とは、浮気夫婦の
言い換えに過ぎない。おしどりの子供の遺伝子を調べると父親ではない遺伝子がみつかるのが
常だ。ましてやチンパンジーは乱婚であり、ゴリラはハーレムだ。ボスが変われば相手が変わる。

個人主義というレベルでみたら、結婚という制度は頭でっかちな社会制度に過ぎない。
とりわけ、長生きになってしまった現代においてはだ。寿命が50年くらいであった時代ならば、
繁殖可能時間で、5人とか子供を産めば、それで精一杯だっただろう。同じツガイでも、
良かったかもしれない。父親は短命であったわけだし。離婚の代わりに死別が一般的だった
事だろう。

つまり動物視点でみれば、結婚が要求する不倫の禁忌や、一生涯の伴侶とする事は、
ナンセンスである。無理な注文なのだ。だから、断言できる。すべての結婚は欺瞞に満ちている。

とここで、話しを終えると、既婚者が暴動を起こすかもしれないので、続きを。

というわけで、多くの男は、家庭の外に恋愛対象を求める。結婚はただの義務だった。
恋愛は自由というわけだ。飲み屋にいったり、風俗にいったり、あらゆる形で欲求を満たそうと
する。建前と本音はちゃんと存在していて、本音はちゃんと実在するのである。一方で、
割を食っているのは、社会的接点のない人妻たちかもしれない。子供と四六時中一緒に過ごす
うちに生殖年齢を過ぎ去り、あとはジャニーズか、韓流にいれあげるしかない。それが恋の
代償だと意識せずにいる。動物の本性は絶対に消しされない。

婚姻率が下がったのは、要するにみんな本音を出し始めたということだ。建前ではなく
本音で。そうしたら、結婚というものに、選ばれない男と女があぶれた。そういうことなのだ。
あぶれた人々は、そもそも恋愛というものが文化になっていない日本では、ごく普通の人である。

恋愛に対して、強い興味を抱く人々だって、本当に恋愛しているとは限らない。
考えてみれば、恋愛の授業などなかっただろう。人生において重要な恋愛。もし、結婚が
恋愛の延長上にあり、社会的な役割をもつ制度であるとしたら、なぜ恋愛が授業にならないのか。

恋愛をどうしていいのかわからないのは、世間が恋愛なるものを知らないからだ。世間の規範に
恋愛が存在しない。なぜなら、恋愛とは個人のレベルの関係性でしかないからだ。世間は個人に
対して冷たいと相場が決まっている。世間は世間に役立つことだけに価値を付与する。

恋愛巧者と言われる人たちは、どうしたのか。実地訓練をした人もいるだろう。映画や本や
漫画などで妄想を描いた人もいるだろう。人を好きになるという感情は必ずしもすべての人に
平等ではない。一目惚れができる人もいれば、一緒にいるから好きだという人もいるだろう。

好きな相手だから結婚するのだというのは、無理がある。じゃあ、嫌いになったら離婚するのか?
そう、だから離婚率が増えている。当たり前だ、そういう風に婚姻を考えているからだ。そう
じゃなくて、生活のために結婚はすべきなのだ。社会が制度として保持するものは、生活の
ため以外に目的はない。結婚とは恋愛とは関係なく、生活のための共同生活パートナーを決める
事である。その上で、恋愛結婚を考えるということになる。実はハードルが高いのが現代の
結婚である。個人の能力として、まず恋愛に向くこと、そして結婚に向くこと、そして相手と
恋愛状態になれること、その上で、生活が営めること、なんてやっていたら、どんどん相手が
いなくなってしまう。当たり前だ。だから、個人主義における婚姻は数が減るのである。そして
離婚も増えるのだ。

じゃあ、どうする? 本当に個人主義を尊重するなら、今のままでいいじゃないか。である。
結婚しない人たちが増えるならば、婚姻制度を基準にした社会制度を改革してゆく必要がある。
今のままやるわけにはいかない。今後はそういう手間がかかることだろう。ただそれだけだ。

晩婚化問題・少子化問題とかそういう事をいう人はすべからく「お年寄り」である。
若者であっても、それは古い思想の持ち主である。国という幻想に生きるのが現代の古い
思想である。その思想が最後の最後でもがいている。だから安倍政権なのだ。だが、どんなに
あがいても、そんな風になるはずがない。時代の潮流は古い人間に冷たいのが常なのだ。

結婚をしたいという人が個人的には理解出来ない。「この人と一緒に過ごして行きたい」なら
理解できる。「この人との間に子供が欲しい」なら理解できる。この時、社会制度として結婚を
使う他ないというのが現代だと思っている。事実婚というのは残念ながらまだ結婚制度を代替
していない。

結婚しても別に幸せじゃない。結婚生活を充実したら幸せなのだ。同じく子供がいるから
幸せじゃない。子育てに価値を見いだせるから幸せなのだ。

もっと自分たちの生活を見直す必要がある。それは金ではどうにもならない。なぜなら、
価値をどう見出すかということなのだから。
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理想主義ー現実主義 [思考・志向・試行]

昨今、よくお花畑とかいう言明がある。ネトウヨたちが、リベラル勢力を批判するときに
口にする言葉だ。個人的には、彼らこそ「お花畑」だと言いたい。

軍隊など、無いほうがいい。私は100%の確信をもって言える。
無いほうがいいに決まっていると。これに賛同しない方は、以後読む必要は無い。
賛同しない人は、頭がどうかしていると私は思っているのだ。

他者を傷つけることを前提とした組織である軍隊。その目的こそ憎むべきことであり、
可能なら、そんなものは無いほうがいい。これを「お花畑」というなら、その認識
自体が「お花畑」といえるだろう。

争うことを前提とした組織を是とするという考えは別に一般的ではない。
かつての人類はチンパンジーやオラウータン、ゴリラと同様に暮らしていた。
そこにも、肉弾戦はあったかもしれないが、他者を根絶やしにするような軍隊や兵器は
存在しなかった。小競り合いは、負傷程度に抑えられたはずである。時におこる殺人も
集団であるはずがなかった。

ところがだ。人は戦争をする。戦争をする能力を持つ。
そして争いを避けるため、争いを行うという矛盾の存在になった。

脳は恐怖する。扁桃体には恐怖を処理する系だけでなく、攻撃をリリースする機能がある。
この意味は、動物は恐怖を抱くと攻撃を行うという事だ。恐怖と攻撃はペアになっている。

もう少し、読み解こう。脳は恐怖に対するリアクションを二つ用意した。一つは闘争である。
もう一つは逃走である。どちらも、恐怖を減らすという働きを持つ。この時、根本を考える
ことは重要だ。恐怖とは何かである。

恐怖とは、生存を脅かされるという事。この生存は文字通り生存である。人には特定の
状況下に陥ると、恐怖する仕組みがある。この仕組みはとても強固であり、恐怖から逃れる
ためには、あらゆる戦略がとられる。

たとえば、恐怖からのがれるために全力で逃げる。ごく当たり前にみえるこの行動も、
時に暴走する。たとえば火事におけるパニックなどだ。出口に向かって逃げればいいのに、
恐怖で我を失っていると、むしろ出口と反対方向に逃げたりする。

同様に、恐怖に駆られると、人は恐怖から逃れるために、精神的な変化を起こす。
それはノイローゼのようなものから、自殺まである。本来、生存率をあげるためにある
恐怖という感情によって、自ら生を奪うのだから、かなり強烈な情動であると分かる。

うつになる人は、この恐怖感情に常にさらされているのだろう。それはとても怖いこと
であると容易に想像がつく。茫漠とした不安感と恐怖が四六時中つづくのだ。それを
断ち切る手段が死であるという事もありえるだろう。

一方で、この恐怖によって攻撃に出ることもある。これも一つの生存戦略である。
攻撃する事で、恐怖を感じさせる対象を遠ざけることが出来るからだ。これを逆に
みれば、攻撃をする人は、たぶんに恐怖を感じているという事である。

ここから、ネトウヨにおける「お花畑」論議をみてみると、彼らは、何かに恐怖していると
みなすことが可能だ。他者の言明を批判するという行為自体が、攻撃である。攻撃という
事は恐怖がある。どんな恐怖か。それは、自分の精神を守ろうという恐怖である。

彼らは怖いのだ。全うな社会が訪れることが怖いのである。彼らの頭の中で構築された
歪んだ世界観、だが、彼らが生きるうえで、重要な世界観が、まっとうな議論によって
崩されることが怖いのだ。だからこそ、彼らは攻撃をする。その実働部隊がカネで
雇われていようが、攻撃を行うと決めた人が居る。その意思を持つ人は、まともな議論に
対する恐怖が存在する。

彼らの言明にみられる幼児性は、まさにこの攻撃という行動に他ならない。他者との意見の
違いを受け止められないのは、幼児性の現れであるが、その幼児性とは恐怖につながっている。
彼らが自己同一視する<日本>というものは、彼らの認識における日本であって、一般性は
ない。その<日本>を実現するためにいうのが彼らのお題目である。もちろん、欺瞞だ。

彼らがおびえているのは、もっと単純なこと。たとえば、自分の仕事を外国人に奪われる
のではないか。自分のプライドが傷つけられることへの恐怖である。要は自分がバカにされて
いるという事への反発と恐怖である。だからこそ、自分が関与すると思しきものに自己を投影
し、その投影された妄想的思想を守るための言動をとる。

他者を貶める行為とは、要するに自分を守る行為なのだ。それはたいてい下らないプライドの
ためである。安倍総理がくだらないのは、プライドを守ることに必死だからであり、彼が受けて
きた学歴コンプレックスや、日本社会へのコンプレックスを解消するために、攻撃的な思想を
掲げている事だ。そこには日本を良くしようとか、他者の存在との関わりを良きものにしようと
いう態度は皆無である。彼は単純に、彼のプライドを傷つけてきた日本社会に仕返しがしたい
だけであり、自分に利益を誘導できればそれで満足なのである。

日本社会は、戦後エリート主義であった。うーん、ちょっとニュアンスがちがうか。学力偏重
社会と呼ぶべきか。その世界において、学力がないものは発言を押さえつけられ、バカと罵られ
て生きることになる。この学力偏重社会でプライドを傷つけられたものたちは、たとえ、その
学力を上げて、良い大学なりに入ったとしても、傷ついたプライドが回復するわけではない。
すると、その解消に励もうとする人物をみると、そこに自分を投影し、同一化をはかろうとする。

自分がしがない生活をしているのだが、特定の野球チームに没頭し、彼らが勝った負けたで、
機嫌が変化するような人をたいていの人は知っているだろう。自己の願望や願いを他者に投影し
そこにカタルシスを感じる行為は、慰めである。これは健全な行為であるが、何も事を解決
しない。ただ、一時、現実の自分の情けなさを忘れることができるという効能だけが存在する。

同じように、安倍にライドする人々は、学力偏重社会において傷ついた人々であり、彼が
その反知性主義をもって、エリートたち、たとえば新聞記者やメディア、官僚などを叩く
シーンをみると、溜飲が下がるという実に下世話で下品な感性な持ち主たちである。

内容ではないのだ。行為として、彼らのプライドがくすぐられる。知識や能力という事で、
抑えつけられてきた人々は、こう思うのだ。「ああ、自分も反論してもいいんだ、ただの
フィーリングでと。」そういう見本を見ることになる。そこには建設的な議論は起こらない。
なぜなら、彼らは単にエリートたちが作り上げてきた社会そのものをヘイトしているからだ。

そのエリートたちが作ってきた社会とは理知的で抑制的でおためごかしに溢れた世界でも
ある。もちろん、実体は違うのだが、知性がない人々からみれば、そう映るのだろう。
もしくは、実体を知った上で、それがお題目であることに気がつくから、余計にそう思うのだろう。
そして彼らがただ、ただ、単純に感じているフィーリングで、よしあしを叫ぶのだ。

だから、弁護士である小林節氏などが、理知的に安保法制の違憲性を唱えても、反知性主義の
人々からみれば、中身が理解できないので、フィーリングで反応することになる。その基準は
自分が同一化をしている安倍が賛同するかどうかである。よって、法律内容の
異常性から反論しているリベラル勢力は、単に安倍に反対しているというだけの理由で、
攻撃対象となり、悪態をつかれるわけである。そこには理論的根拠などない。ただ、自分の
感じたフィーリングで叫ぶだけなのだ。

「自分の感じたものを正しいと言っていいんだ。」これが、無知なネトウヨたちの論理である。
そして、その行為をしている代表格が、安倍たちなのだ。中身はどうでもいい。それを理解で
きるほどの知性もない。だから、おざなりの議論で、安倍たちを真にハンドルする輩の息の
かかった法律が次々に出来上がる。安倍たちは、現状日本社会を恨むものたちの一部で支え
られている。

安倍たちがどんなにアメリカや企業に操られていても、おバカなネトウヨたちには、関係ない。
というか理解できない。だから、自分たちが感じている事を体現する人にライドするという
行為で自分の傷を舐めている、それがネトウヨたちを代表とする反知性主義者たちなのだ。

見た目の印象で、よしあしを決めるという、知性のかけらもない行動は、知性に対する恨み
から発生する。そのような傷を作ったのは紛れもなく日本社会である。知性があるはずの
東大生が、安倍を支持する。このような悲劇の理由はまさに書いたとおりなのだ。知性の
能力すら、反知性主義の思考に絡めとられているのだ。

この恨み、つまり自分のプライドが犯されているという恐怖への反発。それが攻撃となって、
現れるとネトウヨになるのだ。その大義名分に掲げられるのが<日本>である。そのような
記号に自己投影しないとやっていけないほど、情けない人生なのかと、私は問いたい。

アドラーはいう。トラウマなどないと。そして人生は今、この瞬間から変えられると。
それは過去の来歴など関係ないという事だ。人生は先に向かって開けている。ならば、
なぜ、過去傷ついたプライドを守るために、<日本>という幻影を掲げてまで、生きるのか。
そこまで恐怖なのか?その下らないプライドが恐怖というおびえに満たされていると
指摘しても、とどかないのだろうが、われわれはこう言える。

悪態をつくネトウヨは、おびえた者であると。

そんなおびえた者は、可哀想な存在である。自分が安倍を支持する事で、上位に立っていると
思うことでしか、自己の精神を支えられない危険な存在であり、不幸な存在である。

そのような存在を日本社会は作り出している。私はだからこそ、彼らを救済するために
安倍のような人々は表舞台から退散してもらわねばならないと思う。そして、もっと
「お花畑」を実現しなければならないと思うのだ。

最初に戻ろう。「お花畑」が描く世界は理想論である。確かにそうかもしれない。
だが、そのような社会の方が「社会に恨みを持つ人間」の発生を減らせるのではないか。
社会に恨みをもつような不幸な存在を減らすためなら、「お花畑」でもいいと思うのだ。

軍隊が必要という。それは他国が軍隊を保持しているからだと。ならば、普通に考えたら、
どうやって世界的に軍隊を減らせるかと議論すべきだろう。暴力装置は無いほうがいい。
暴力装置によって、人は恨みを増やすからだ。自分の親族・友人・知人がもし軍隊に
よって殺されたら、当然恨むだろう。このような圧力を加えられた人々は、間違えなく
報復を考える。誰かが勝った負けたという話ではない。軍隊が出動し、誰かを犠牲にする
という行為そのものが、人類にとっての敗北である。

社会を恨むような人間がいるという事が、本質的に社会を悪化させる。ならば、
社会を恨む人を減らすべきだ。それには暴力を減らすほか無い。その暴力とは、物理的な
ものから、精神的なものまですべからくである。安倍のような人は、コンプレックスが
あるからこそ、反知性的に振舞うのである。恨みとは非常に怖いものなのだ。そして、
それを植えつけたのは他でもない日本そのものである。

理想主義であるという事はどういうことか。それは問題を本質的に解決しようと真摯に
考えた結果であるという事だ。つまり「現実主義」である。現実的に理想的な社会が
こなければ、常に社会に恨みを持つ人々を発生させ、争いが続く世界が維持されるのだ。
それを不毛と思うなら、「お花畑」を実現させるしかない。ならば、本当の現実主義は
理想主義にしかならないのだ。

いわゆる現実主義とは単なる「現状維持」である。私はこの考えに組しない。
社会をよいものに変えるには、理想的状態を求めるほか無い。ならば理想主義になる
のが当たり前である。これを反知性たちはごく単純にフィーリングのみで批判する。
そこに建設的なものなどないのは、その存在からして明らかだろう。彼らの目的は
自分のプライドを守るという実に幼稚なことだからだ。

恐怖は攻撃と表裏なのだ。これを知っていれば、攻撃をする人はすべからく怯えたかわいそうな
人であるといえる。また、その攻撃に勝ったからといって、彼らは幸福にはなれない。
彼らのコンプレックスは解消するはずがないからだ。自分の本当の心の状態を否認している
がために、彼らの心がよくなるはずがない。そして、他者を攻撃したことで、自分もまた
傷ついているのである。自分の恨みを冗長し続けているのである。

社会への恨みを作り出す社会構造とはなにか。
中央集権的組織、つまり官僚制度であり、その制度が必要とされるのは資本主義において
有利に事を運ぶためである。よって、私は社会への恨みの発生は根幹にある資本主義の欠陥
とみなす。これは文化である。このような文化はいずれ自滅するだろう。それもまた、
社会の構造的欠陥だからだ。この欠陥が社会構造上現れることをマルクスは予言した。
事実、それが今まさに我々の眼の前に現れた。

ところが、システムは不問にされ、むしろ、資本主義システムの強化つまり新自由主義が
跋扈するように世界は動き続けている。この構造は、社会への恨みを強化する。その恨み
のはけ口としての消費社会であったが、すでに日本では失敗している。当たり前である。
人は欲求に限界があるからだ。生き物として必要なものや、それを消費できる時間は
制限があるのだ。

この話はまた次回にしよう。
何はともあれ、我々は理想主義者たれ。これが言いたかったのである。


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人は忘れる生き物

どうやら、わかっていても人は覚えていられないものらしい。
ということは、覚えているものというのは余程、強い思い入れによるわけだ。

現代は、効率重視である。効率重視とはかけるエネルギーを減らしたり、
かかる時間を減らして、同様の生産を行うという事である。だが、そんなこと本当に可能なのか?

機械を使えば、合理的・効率的といわれる。現代ならPCを使うことで合理的・効率的になる。
つまり、今まで2時間でやっていた手書きの作業が、15分で終わるという事かもしれない。
そしたら、普通、残りの1時間45分は休みになる。つまり、仕事が効率的とは、要するに
仕事量は変わらず、かかる時間を減らすということだ。だが、そんなことは現実には起こらない。

効率的になった時間は、他の仕事がふってくるわけだ。生産量が増えているならば、
これでもまだマシだが、実際には、生産量が増えるのは最初だけで、さして変化しないだろう。
なぜなら、効率的に生産したところで、そのサービスを買う人も同じだけ効率的でなければ、
意味がないからだ。当初は、供給不足を補えるかもしれない。しかし、供給が安定すれば、
価格は下がるし、でる数も横ばいになるだろう。これは遅かれ早かれの話である。すると、
仕事はその生産を調整されるようになる。

では、頭打ちになった供給により、仕事量は減るはずである。だが、実際には仕事は増える。
それは無駄な事が増えるという事である。今までは時間がなくて出来なかった作業、例えば、
書類作成や、そのまとめ、報告などが、時間があるので可能となる。また、新しい仕事も可能
となる。だが、それが事実意味があるかどうかは、分からないわけだ。なにしろ、かつてなかった
仕事である。実質上、あってもなくても、大した問題ではない。むしろ効率的にできるからこそ、
無駄な仕事が増えるのである。

本来、あらゆる生産やサービスは、消費量によって頭打ちになる。消費は人の生理的な問題だ。
人は一日ならば、16時間しか起きていない。そのうちの2,3時間は食事に使い、5時間位は生活
のことに使うだろう。どんなに長くても、10時間位が仕事の時間である。でも、消費が行われる
のは、この生活の時間であるから、この部分がひとまず長くならなければ、潜在的な需要は増えない。

人々の仕事が効率的になって、あたかもサービスが増えているかのようだが、実は仕事量が増える
事で、供給側の限界値が下がっている事になる。

加えていえば、人は動物である。当然、リミットが有る。あらゆるサービスの消費には上限が
存在する。どんなに大食漢でも、100人分とかはたべまい。生物的な上限があるのだから、
仕事の量は必然的にある範囲で収まることになる。もし、これを増やそうと言うなら、人を
増やす他ない。だが、現実的には少子高齢社会になった。人は減るばかりである。

このような情勢の中で、資本主義が要求するのは、拡大再生産である。採算をとるには、借金した
金額の利子が増えるよりも早く、金を稼がないといけないわけだ。より多くのサービスを提供して
金を得るには、市場が広いほうが良い。あらゆる時間帯で、あらゆる人が多くを消費しないと、
間に合わない。だが、現実はこれに上限がある。

多くの画期的サービスとは、この上限に小さな穴をあけるものだ。例えばアマゾンは、人が
店にいく時間というものを省くことで、消費機会を増やした。人が店にいく時間というコストを
カットし、人と商品の接点を増やすことで、企業は上記の市場を生き抜いている。あらゆる時間に
決済が可能で、あらゆる商品がそろっている。

同じようにグーグルは、企業に広告という商品を物理的制約なしに提供することに成功した。
BtoBの方が、消費規模がでかいのでより儲かる。あらゆる企業が企業の生き残りをかけて、
四苦八苦しているのを脇目に、ウェブというツールにより人の生理的な制約を拡張する事で、
収益をあげている。

とはいえ、多くの既存のサービスは、人の消費にかかるコストにおいて、制約がかかり、
売上を下げ続けている。このような時、人は間違った行動に出る。無理やりなんとかしようと
するからだ。

この資本主義社会は、供給だけでなく決済にも効率を求めるようになってきた。売上の結果を
評価するという姿勢である。あらゆるものが効率的に処理されてくると、その成果も効率性の
名のもとに、評価されるようになる。これは、人が忘れやすいという事をすっかりわすれた
行為である。

ミクロに見れば、事務員がPCを使って高効率的な仕事をすると、売上がふえるかのように見える。
ところが、実態は仕事量が増えただけで、サービス提供の段階において律速がある事をうっかり
している。これと同じように、とある行動がもたらす効果は、別に決済ごとに現れるわけではない。
とある行動が、5年や10年といったスパンで成果を出すものもある。むしろ、そういう長期的
視点でしか、評価できない仕事も多い。そのようなものを評価する仕組みは実は非常に難しい。

それに人は愚かだから、長期的な結果を判断するだけの能力がない。例えば、原発のリスクは、
実際には非常に低いかもしれない。だが、一度起これば、ずっと被害が続く。当然、土地は台無し
になる。そのリスクによる経済的損失は原発を設置する費用どころの騒ぎではない。天文学的な
経済損失になる。だが、人は愚かなので、自分が生きている間、いや、自分が責任者として任期
中だけがリスクであると思っている。

マシュマロ実験というものがある。4歳位の子供の目の前にマシュマロを置くのだ。そして、
15分食べるのを我慢したら、もうひとつ上げるよという。我慢できる子と出来ない子がいて、
我慢できる子は、将来的な学業成績や収入が良い事が知られている。つまり長期的な効能のために
短期的な利益を保留するという事だ。それだけの知恵があるという意味なのだが、現代の経営者
はすべからく、この逆をいく。あほうなのだ。

長期的な投資をしぶり、数字がよくなる短期的な金融などに投資をする。供給力を向上させるので
はなく、宣伝に金を回して、需要喚起に訴えて、消費を促す。なんなら、人々に未来不安を押し付けて
不要なものまで売ろうとする。健康食品・器具や保険などは、まさに恐喝商売だろう。また嗜好品
であっても、本当に意味のある嗜好品以外に、嗜好品を消費させようとする圧力がある。
そうやって、本質的な部分を疎かにして、儲けを増やすことを効率的にしていると、今度は、
人が傷んでくる。

さきにも上げたが、人は効率的に生きているわけではない。どんなに頑張って食べても、
体は一定の速度でしか消化できないし、体をつくるのも一定の時間がかかる。量がふえても、
意味はない。質をます方向性は圧倒的にましだが、質だって、人がもとめる質には限界がある。

人は動物であって限界がある。その限界を超えるのには死ぬしかない。だから、ときおり日本では
仕事で人が死ぬ。人の限界とはそういうことだ。短期的に見たら、仕事で人が死ぬくらいが
効率的なのかもしれない。だが、長期的に見たら、その人が生きていただろう時間で生み出す価値が
圧倒する事だろう。

現代の問題は、にわとりのような経営者ばかりという事なのだが、その本質は社会的な価値や意味
がふにゃふにゃしているという事に依る。かつては神という価値があり、そこに近づくために、
道徳や倫理が生まれた。その神は死んでしまった。神自体が社会的装置であったと認知されたから
だ。価値の源泉であった神が死に、代わりに神の存在証明の手段であった科学がその場をしめた。
これをニヒリズムと言ったのはニーチェである。手段は所詮手段である。科学は、効率的・合理的
な事柄に価値を与えた。だが、人生への価値については口をふさいだのである。

現代では、価値といえば、カネだろう。カネは価値ではない。価値とは人の生きる意味である。
あなたの存在は価値がある。だが、現代ではあなたをカネで測ろうとする。生涯年収がいくらで、
一日あたりどれくらい稼げるか。そんなことが価値になってしまった。そういう世界を我々が是と
しているからだ。

科学主義と拝金主義が席巻した今日。人は、自分が動物である事をすっかり忘れてしまった。
いずれ死ぬ存在である。ならば、どう生きるのか。どう生きてゆくのか。それを価値観という。
合理的な精神でいえば、どうせ死ぬのだから、何をしてもいいというニヒリズムになる。価値は
相対的になり、何をよりどころにすべきか。今更に神に帰依できるだろうか。科学は死を超えら
れない。

忘れっぽい人々にいいたい。価値や意味こそが人生である。もう一度、問い直して欲しい。
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はたらかないで、たらふく食べたいー栗原康 [思考・志向・試行]

栗原康著の「はたらかないで、たらふく食べたい」を読んだ。実に面白い。
独特の視点があって、文章から受ける飄々とした感じが良い。たぶん、そのままの人柄なのだろう。

内容はエッセイなのだが、基本的に社会批判であり、脱国家である。
アナキズムの研究者であるがゆえか、その視線は現代的には受けないのだが、
個人的にはとても共感できる。ここ数年考えてきたことと、見事に重なってゆく。
ゾミアとは、国家の囲い込みから逃れようとする人々を指すのだが、まさに、私は
”合法的な”ゾミアを目指しているのだと確信した。

国家の権力とは、支配者である。つまり一部の人間たちという事だ。その国がやることは、
基本的に国という存在の持続である。国という組織の維持管理が国の仕事になっている。
柄谷行人が指摘したように、国とは支配者と被支配者によって組織されたもので、その原型とは、
武力を背景とした少数派が武力をもたぬ多数派を支配する形態である。むろん、現在はこれが
とても見えづらい形になっているし、支配者であった、君主たちは、気がつけば表舞台をさり、
代わって資本家などがもっぱら国を支配する形に移行してきたわけだ。国というものの実体は、
少数派が多数派を武力も用いて、労働させ、その収益をピンはねする仕組みである。

ん?ピンはね?そう多くの人はそれとわかっていないが、租税とは要するにピンはねであり、
そもそも労働の提供とは、義務であって、権利ではない。おわかり頂けるだろうか。労働は、
消費のためではない。労働とは奴隷である国民に課せられた義務なのだ。そしてそこから外れる
事は、国という制度からの離脱であり、国は罰を発動する。

現在の安倍政権はこれを改めて思い起こさせる。政治的支配者であるという自覚満々の存在。
そして、権威を傘にきて国民を奴隷だという扱いをする。典型的な中世の支配者思想だ。岸の
孫だからか、現代社会からみたら歪みきった思想の持ち主であるが、国とは内実そうなっている
という事をうっかりと見せてしまう。それはアホウだからなのだが、それを市民がいくら吼えた
所で相手にしないだろう。なぜなら、彼は自分が支配者だと思い込んで生きているからだし、
事実、支配者であるという振る舞いを周りが許し続けてきているからだ。要するに彼は彼の世界
で、自分を支配者だと思い込むにたるだけの扱いと、客観的に自分を眺めるという能力を欠く
愚かものである事を披露し続けているのである。

いや、もう少し言葉を足すならば、彼は実質的に支配者側の人間であろう。バカなので、それを
駄々漏れにしているという所なのだ。実際に支配者なのだから、そのように行動して何が悪いと
そう信じているのである。実際にそのような側面は間違えなくある。そして、多くの市民は、
そのような存在を認めておらず、一介の国会議員と同じ振る舞いを仮定してしまうのだ。それは
市民の自己意識に関わる。ねじれが二つあるのだ。

安倍は、自分が支配者であるという点において信じきっており、事実、日本の支配構造の
一部の存在であろう。バカはそれを隠さないというだけに過ぎない。一方で、市民は、そのような
支配構造があるという事をどこか無視している。国が本来的に支配・被支配の形をとっている
とは思っていないのだ。国会議員を選んでいるのは我々であるという建前上の事実にしがみつき
内実的には、奴隷として国に利用されているという点を盲点としてしまった。だから、市民は
ちっとも、安倍を理解していない。現代には、安倍が自分で信じている支配者という存在は、
市民はいないものとして生活しているからだ。そんなはずはないのに。

たとえば、なぜ山口県という土地から9人もの総理大臣がいるのか。警察にはなぜ、九州鹿児島
出身者が多いのか。歴史の痕跡を我々に教えてくれる。そして、このような政治的背景に対して
財力を持つ人々がどう振舞うのか。権限があるところに権力が発生する。

日本には天皇・貴族・士族の末裔という権威が存在し、ここに資本という経済圏がかぶさり、
加えて戦後のアメリカ支配というベールがある。おそらくこれらを綺麗に分析する手段は
ないだろうが、少なくとも言えるのは、カネが現代のパワーの源泉である。これを軸に、
我々は支配・被支配構造に組み込まれている。国という組織は、この支配関係の固着化に
一役買っているのである。

庶民は、「市民」として生きる事を明に暗に強要されている。労働者が何をするのか。
どこかの会社に就職するか、一次産業に関わるか、官僚などになるか、サービス業につくか、
いずれにしても、国という枠組みの中で、被支配者として生きるほか無い。むろん、現代では
カネを集めればパワーを得て、支配者側に回ることも出来るのかもしれないが。それも、
かなり怪しいといわざるを得ない。日本では。

労働者は、カネに絡めとられている。行動の全てがカネである。言い直せば、仕事である。
仕事に人生を絡めとられている。なんのために仕事をするのか、それは生活のためだ。
生活とは何か。生活とは、衣食住の充足と、共同体を育むことだ。そのためにカネは必要か?
たぶん、本質的な要素ではない。では、なぜ生活のためにカネが必要だと思わされている?

カネがないと、税金を納められないからだ。結局、カネがないと、国という組織に収まって
いられない。カネを稼ぐための労働とは、どこまで言っても、支配者への献上のためである。
どこにも、本質的な自由は無い。税金という形で首根っこをつかまれた存在が、市民である。

現代の本質的な日本の政治的支配者は、アメリカである。経済的には、日本に投資している
資本家たちである。彼らにとって不利な行動は日本全体で規制されている。その上納金を
日本全体で、労働者が、市民が納めているのである。

かつては、肉体労働であり、奴隷が死んだら、代わりをもってきていた。だが、それよりも
殺さずに生かしたほうが、結局、多くを搾取できると気がついた。だから、労働者なるもの
が生まれた。その労働者なるものは、最初こそ武力を背景に強制されていた。それなのに、
その子孫たちは、労働なるものが自分たちの存在目的かのように考えるようなり、ましてや
その賞罰的世界観により、労働の拒否をあるまじき不道徳のように考えるようにまでなった。
ロボット化とは言いすぎだろうか。

現代は、奴隷にも人権があるという時代になった。立場は変わらないが、その在り様は
おそらくマシになったのだろう。支配側の人々は、奴隷の新しい利用法を思いつく。それは
富を現物ではなく、カネという抽象的物体に変換する事で成り立つ手段だ。奴隷たちにカネを
生み出す行為を与えることで、支配者側が富を得る仕組みである。

カネを得るのがどれほど大変かは、多くの人が味わっているところだろう。ところが、
そのカネ自体がどこから来るのかについては限りなく無知である。カネは負債である。
その負債とは要するに、労働券のことである。カネが担保するのは、未来の労働力である。
何をいっているのかわかりにくいだろうが仕方が無い。常識では理解しにくいはずだ。

栗原氏によれば、労働のための消費だった時代(工業化時代)は過ぎ去り、消費としての
労働時代(なんと労働が消費とみなされる!)になったと。そして、労働自体に、美辞麗句が
並べ立てられる。就職するのにどれほどの労力を費やすのか。それは、自己があたかも選ぶ
消費のようだ。そして、内実は労働をしているのだが、その労働自体が、消費として
理解されるのだ。

このどちらにも組しない、ホームレスやルンペンは、社会の敵に見えるだろう。働かないのは
ずるいと。そんな連中は国に属する権利がないとまで考える。もうこうなると徹底的に奴隷
なのだが、本人は気がつかない。労働がいかに自己実現なのかを主張して憚らない。

現代は、おそろしい事に、消費のための労働をするために、競争が行われている。労働とは
元来、武力を背景にして強制された行動だ。ところが、それがいつのまにか、自ら進んで
行う行動として定義され、もっといえば、消費としての労働になってしまったのだ。だから
こそ、労働の場を争う。カネを失えば、生きていけないという枠組みに押し込められている
からだ。

カネの源泉はなにか。ひとが借金する事である。借金とは未来の労働力である。5000万円
借りて、家を買う。一見普通に見えるが、カネに依存する事を選ぶ行為である。その5000万円は
決して、銀行が誰かから得た資金ではない。銀行がまるまる生み出すカネである。銀行は、
そのカネに対して利息を要求する。これが銀行の取り分となる。

利息は誰が生み出すのか。それは労働者本人であるが、その労働によって得るカネそのものは、
誰かのカネである。誰かが何か借金をしたから、利息であるカネを労働者が手元に引き寄せられる。
要するに、誰かが借金を続けてくれなくては、労働してもカネを得る事はできないのである。
これは原理原則である。

借りたカネを返すという道徳が機能するならば、これは成立し、ぐるぐると巡って、支配者に
利益が転がり込む。そういう仕組みなのだ。別段、銀行の話だけではない。労働者は、稼いだ
カネを持っているだけで、消費するだけで、税金を奪われる。労働者の得た富は、常に支配者
によって、わずかずつ略奪されるのである。

支配者たちは、現代では、カネという仕組みによって支配する。武力を背景に支配し労働を
強制するのではなく、教育を通じて、労働を強制させ、ときに自主的にさせ、その労働により
うまれた富をかすめとる。富はかつてのように物体ではない。カネという架空のものだ。だが、
誰もがそれを意味があるとみなす限りにおいて、強力な労働力収奪のツールになる。

カネは、そのままじゃあ増えない。ふやすには銀行と同じように、利子をとるしかない。
つまり貸すことだ。誰かに貸して利子をとればいい。誰かに借金をさせればいい。借金を
させれば、その中身はなんだっていい。だから、家を買うでも、道路を作るでも、原発を
作るでもいい、カネを借りてくれて、利息をとれればそれでいい。

消費者レベルでみれば、いかに宣伝を介して、洗脳し消費させるかである。消費も、
借金でいいのだ。その方がもっと効率が良いからだ。借金して購買すれば、その負債を
労働力で返そうとする。つまり、武力ではなくカネで労働を強制できる。そして、
その利息を生み出す事に他者を利用できる。誰かが、現物をえることでは、決して支配構造
を変更することはないと思っているからだが。

民主化を訴えるアメリカの目的は何か。支配者はカネをもつものである。カネをもつものが
欲するのは、貸し付ける人間たちである。なぜ中東に空爆をするのか。なぜ戦争道具を生み出す
のか。イデオロギーとして資本主義を押し付けるのはなぜか。もう分かるだろう。投資とは、
搾取の言い換えに過ぎない。

国という制度に支配者が住んでいたときは分かりやすかった。だが、現代はカネあるものが
支配者である。カネによって国という制度が利用される。支配者にとって都合がよいように、
国の制度がいじられる。こっそり、こっそりと。多国籍企業は国を超越して支配を広める。
いや、資本主義の黎明期から、ずっと企業つまりカネをもつものが支配していたのだ。

政治的支配とカネによる支配は重なったり、離れたりする。現代は政治的支配にカネが
結局あつまるために、どんどん重なったに過ぎない。

借金は個人とは限らない。そして、借金は借りる主体がいるとは限らないというところまで
きてしまった。日本はいま国債を発行し続けている。1000兆円だ。これを返すのは、国民
である。国というものが国民と同化した結果、支配者たちは国に借金させることを思いつく。
国の借金の利息を得ようという事だ。なぜなら国の財政とはつまり、労働者全体の資産で
あり、そこに借金をつけくわえれば、個人の借金でなくても利息を奪うことが可能となる。
本人たちの意思とは無関係に、借金を背負わされている。そして、まだ生まれても居ない
日本人たちに負債を押し付けている。

ここで氷解する。税金とはなにか。要するに、支配者が国つまり国民におしつけた借金の
返済なのだ。税金を払うのは、もちろん国を経営するためだが、そこの一部は、カネの
支配者たちが押し付けた借金である。言われもない借金のために、今日もサラリーマンは
深夜まで働く。国の中に生きているという洗脳がうまくいっているのだ。

税金を納めるとは、ようするに国家の暴力からの免除を求めている行為である。
だが、そもそも国家は、国民にいわれもなき負債を武力を背景におしつけ、労働を駆動
させているわけだ。結局のところ、市民である我々は被支配者である。

さて、栗原氏の著作に戻ろう。彼はブタが好きだという。豚はぴいぴいと啼く。
ここでいう豚とは要するに市民のことだ。豚たちは一見すると、自分たちで選んでいる
かのようみえる。仕事も人生も、消費活動も。だが、豚たちはいずれ食われてしまう。
市民は自由にみえる生活から、不自由な行動だけを選び取る。その人生を消費としての
労働に費やしてしまう。やりたいことを何もせずに死んでしまう。その人生を税金を
納める労働力としてだけでやり過ごしてしまう。

そんなのは悲劇ではないか。ならば、市民生活など壊してしまえ。やりたいことを
やっちまえ。社会道徳などくそくらえ。はたらかないで、たらふく食いたい。
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種子法による矛盾ー戦争起因ー [思考・志向・試行]

食は生活である。生活である食を売り渡そうとする政府の動きがある。
いや手遅れなのだろう。ここではそれを解説しよう。

2018年の4月、政府は種子法の廃止を行った。
種子法とは、タネの原種を守るという法律で、各都道府県がタネを管理するというもの。
ところが、このタネの原種の情報を特許化することが可能となる。そうして、F1種を
作りだして、毎年タネを農家に売りつけようとする企業が参入することになる。F1とは、
混合の遺伝子組み換えタネの事を指す。(もともとの意味は違うのだが。)

これの何が問題か。TPPの法律を批准することで、
F1種の作物しか、作れなくし、それを食べる他ない社会を作るというのが
今回の流れになる。すると、世界の数社が売りつけるタネを毎年買い続けて、
遺伝子改変作物を食べるという以外の選択肢がなくなるということだ。

自家採種して、作物を作ればいいというかもしれないが、それをすると、訴えられたり、
罰金を払ったり、場合によっては逮捕されるという法律なのだ。

もともとの種子の値段が数円だったものが、企業が入ることで、十倍くらいになる。
つまり、体に何が起こるか不明なGMO(遺伝子組み換え作物)を強制的に高い価格で
買わされるという事だ。

なぜこんなことを政府は許すのか。
一つには馬鹿だからだ。政府与党は馬鹿なのである。
そのせいで、よく中身がわかっていない。何が起こるのか政府がわからないのだ。
んなわけあるか?んなわけあるのである。外部からの圧力によって、日本が改造
されるというのが現政権の政策である。安倍政権は口では保守のような事をいっている
が、やっていることは革新であり、それもアメリカの属国まっしぐらである。
つまり、政府はアメリカの、それもごく一部の人々の言いなりになっていて、
彼らに有利な形で、法律が決まってゆく。

煽りを受けるのは、庶民だ。庶民は体に何が起こるのか不明な作物を、
かつてよりも高い価格で購入することになる。改悪にもほどがあろう。

それを安倍政権が行おうとしている。繰り返す、現政権がTPPを通し、
それに適合するように国内法を変更し続けているのである。

彼らの主張は、規制緩和であり、自由貿易に貢献するという論旨だ。
だが、それは市場がまともに機能する理想世界の中だけであり、現実にそんな
マーケットはそんなものはない。そもそも規制緩和が良いものという論理はありえない。
あるのは、競争を増やすと良いだろうと予測が立つ事柄だけであろう。それは個別の
問題であり、規制緩和=善というのは、あまりにも愚かである。

ということで、愚昧な安倍政権に任せていると、日本は壊れてゆく。
要するに食い物にされてゆく。それをみんな知らなすぎるのである。
あなたの生活が苦しいのは、間違えなく現政権の政策の結果である。
それを直視してほしい。今回ボーナスが増えた?馬鹿な。現政権がやっているような
政策じゃなければ、最低賃金が二倍の1500円程度の世界があったはずなのだ。
そんな少額のボーナスという餌で、安倍政権を評価するのはあほらしい。

日本は世界有数の高税率国である。(僕の記憶が正しければ、世界1位だ。)
この国は政府が金を巻き上げておいて、それを民間に配る仕組みになっている。
その権益をますます強めようとしているのである。

その親玉はアメリカだ。安倍政権など傀儡に過ぎない。
現代はそういう時代なのだ。日常の生活に満足しているなら、
それでも構わないが、もっと良い社会、余裕のある社会が望まれるだろう。
だが、人々は、苦しいを方を選ぶ。バカバカしいが日本人とはそういう民族である。

今回の種子法廃止は、親玉のアメリカが、タネという商品を日本に売りつけるための
方策である。それを具体的に実行しているのが、現政府と官僚たちだ。アメリカの属国
まっしぐらである。それを安倍は「戦後レジームの脱却」と言っている。まるで逆の
事をしているのにである。ほとんど意味不明なのが現政権の首相なのだ。

経済界は、彼を利用して、自分たちに有利な世界を構築しようとする。
それは結局、日本という社会を崩壊させてゆく。その手助けを安倍政権はしているわけだ。
保守が聞いてあきれるだろう。

種子法廃止撤廃法を、野党が提出した。
野党は少なくとも、与党の批判もあろうが、きちんと仕事をしている部分がある。
ひとまず、我々にできるのは、野党を応援して、馬鹿な政策を行う与党を牽制する他ない。

まあ、庶民の大部分は、奴隷なんで、こんなことを書いても無駄なんだけど、
もしこのエントリーを読んで、おかしいのか?と疑問をもったあなたは、是非調べてみてほしい。
政府がいかに国を売ろうしているまさに本丸であり、売国奴なのかを。



さて、それでなぜ戦争につながるのか。もし食料が一部の企業に寡占されたとしたら、
きっと法外な値段で食事をえるしかなくなるわけだ。これは暴動や反乱を当然招く。
そして、本当に深刻になれば、内戦状態になる。それをまたハゲタカのような海外企業が
武器を売りに来る。借金をさせて武器を売りつけるわけだ。そうやって、暴力行為の拡大
へと食料難というのは続いている。歴史は常に、そういうどうにもならない理由で争いを
したという事実がある。人はどうにもならないとき、攻撃を行うものなのだ。

参考:
http://kokocara.pal-system.co.jp/2017/05/29/seed-yoshiaki-nisikawa/
https://youtu.be/2aGl8UNHu0Q

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人の思惑と幸福は反比例する [思考・志向・試行]

人はお金に執着する。もちろん、人類に一般的なことではない。むしろ、人類にとっては
特殊な状況である。日本では、ごく普通の認識だが世界をみれば、特殊である。

人が人として見られない世界。これが日本の生活である。この認識もまた都市部の論理であり、
ちょっと郊外にいけば、そんなことはない。まだまだ人間が住んでいる。ところが、行政など
国のシステムの根幹になるほど、人が人ではなくなる。彼らは他者を金になる材料とみている
のである。それは現在の日本の政治が目指すところをみれば明らかだろう。

この根幹には立場主義がある。人には人の生活がある。能力にも違いがある。
だから、社会においてどんな持ち場を担当するかは、社会の問題であって
個人の問題ではない。これは人を人としてみる社会ではあたり前なのだが、現代、特にインテリ
においては、この当たり前が頭から完全に失われている。そして、人々は立場において行動を
とるように強制され、矯正される。

例えば、学校では、先生は先生らしく、生徒は生徒らしく振る舞うことを要求される。
部長は部長らしく、課長は課長らしくである。そういう事から次第に立場による行動を
当たり前とするようになる。その結果、組織は硬直化する。硬直化が進んだ組織は、当然
衰退する。衰退することがわかっているのに、組織は硬直化をやめない。むしろ、ますます
硬直化してゆく。そして、誰もが自分の役割に四苦八苦しているにも関わらず、それをやめない。
むしろますますしがみついてゆく。

その結果として、人は心を不安定化させる。自分を誰もみない世界。役割だけを負わされる世界。
そちらに比重がある社会は、人を精神的に殺してゆく。その副作用は行動に現れるようになる。
自分の心の不安定さを紛らわすように、仕事に没頭する。家庭生活に没頭する。社会的に是と
される行動をドライブするようになる。そうすることで、自分の心の不安定さから目を逸らして
いられるからだ。

大雑把にみれば、都市部の人間は2つの事しかしない。一つは仕事への没入。もう一つは、
消費への没入だ。これらは人を幸福にするんだろうか?

幸福というのは非常に主観的なものだ。だが、主観的なものであっても評価の方法はある。
プラス方向の評価は難しいが、幸福ではないものの評価は案外できるものだ。例えば、不安感を
計測すればいい。質問紙でもある程度可能であるし、GSRや脳計測をすればもっとはっきりと
不安感を定量化できるだろう。不安感が強い人は幸福度が低いとみなすことができる。

不安感を拭うには、たとえば、他者から称賛されるという手がある。みんなに認められたら、
安心する。社会的なステータスとは、要するに社会的に是とされる立場を得ること。これは
換言すれば、他者から認められるという事である。そのこころは要するに不安なのだ。自分で
自分を認めることが出来ないために、社会的に是とされる事を得ようとする。

それは学歴社会である日本ならば、高成績をとって、良い大学に入ることだろう。
同じく大企業に入ることだろう。これもまた、不安を減らしてくれる。異なる方向なら、
スポーツで大成するとかであろう。これもまた不安感を減らす。

こういう社会が是とする行為に耽けるのは、要するに不安を解消したいからだ。それは
決して幸福な状況ではない。

上記ではなく、ある種の謀略によってステータスを得る手段もある。政治家になるという
のは、知名度を得る事で不安を解消する手段である。

このようにして不安を解消したかに見える彼らは、その権限を利用して自分の立場の安定化
を図ろうとする。その心はちっとも不安を解消できていないということだ。だからこそ、
自分の権限を駆使して、利益を誘導しようとする。結局、この利益誘導が日本社会全体に
影響を及ぼす。汚職というのは、このような行動から生まれる。それは損得感情による
行為であり、その損得というのは、不安から生じる衝動なのだ。

不安ベースである行動ということは、それを持っている限り幸福度は低くなる。要するに、
金持ちがなぜ金儲けをやめないかといえば、常に不安だからだ。現代であればおおよそ
人生に必要な金額など、概算できよう。それ以上に儲けようというのは、要するに不幸
だからだ。

もちろん、彼らは認めない。自分の不幸さを。不幸であるという視線を跳ね返すために、
努力し金銭を稼いでいるのに、その根幹を認識できるはずがないのである。このような
不幸な人々は、自らの行動でますます不幸になる。それは自分が実は不幸であるという
ことに気がついていないという事につきる。自分の状態を知らないがために、不幸で
あり続ける。

何を幸福と呼ぶかは、ひとそれぞれにしても、常に潜在的に不安を抱いているのであれば、
それは幸福ではない。そして、その解消のためにやる行動そのものが、ますます不幸を
冗長する。例えば、消費行動。過大な消費をすればするほど、日常的な些細なことに満足
しなくなる。過大な消費を続けるためには、ますます金が必要となる。

社会はこの人の性質を利用する。不安感を煽るのだ。健康な人に対して、将来がんになる
かもしれないと脅す。そうして保険を買わせる。この種の不安を解消するためにどれくらい
金を割けばいいのかは不明である。それこそ不安の度合いによるとしか言いようがない。

立場主義も同じこと。特定の地位をしめていれば、金が手に入る。その立場を死守するために
なんでもやるという事をしがちである。会社が潰れては意味がないと、不正や不法な行為で
も、儲けるためなら何でもやるという行為に出る。そこに欺瞞があってもだ。それは結局、
不安なのだ。金がなければ生活が出来ないという不安のためなのだ。

もちろん、金がなければ生活できない。一方で、金がどれほどあっても満足出来ないという
異常な状況。少なくとも、一部のシステムはこれが暴走していると言わざるを得ない。

自ら不幸な状態を作り出して、それを補完するように努力し頑張って、状態を元に戻す。
そんな作業に明け暮れている。ところがそれをいかにも素晴らしいことかのように喧伝する。
嘘はだめだ。苦しんでやる努力など、本質的な努力ではない。それはただの苦行であり、愚行
である。だからこそ、ときおり、自らの命を断つような事が起こる。本質的に自分の行動の
意味をわかっていないからだ。そして、他者に貢献することと、誰かの従属することを
勘違いしているのである。

ではどうしたらいいのか。その答えが、ここで出るわけではない。だが、言える事は、
不安であることは不幸なことだと直視することと、その不安の出処が、自分ではなく、
他者からの視線である時、自分の行動変換する勇気を持つことだろう。自分を不幸にする
システムに適応し、従属させようとするのが会社組織、とりわけ大きな組織である。
それは国や世間というものでもある。

社会的な成功というものは、人を本質的に幸せにしない。その理由は不安ベースだからだ。
そうではなく、自分の欲求に叶う形で行動する事。それが幸福をつくる。

とここで終わるのが、一般的な話。もちろん、ここでは終わらない。


自分の欲求と簡単に書いたが、実はこれが一番難しい。なぜなら、欲望とは他者からもらう
ものだからだ。欲望が生じるのは、他者が欲望によって幸福を得ていると感じるときなのだ。
あなたが、その服を欲しがるのは、それをどこかで見たからだろう。あなたが特定の活動を
する時、それが誰かの真似である可能性は多いにある。

例えばスターに憧れ、自分がスターになる。それはきっと、まるで異なる体験なのだ。
スターであるという事は、幸福と関係がない。だが、憧れる人はスターになる事を幸福だと
羨望する。同じく、なにかになれば、という思想はすべからく幸福と関係がない。セレブ妻
になれば、部長になれば、第一志望校に合格すれば、素敵な人を彼氏・彼女にできれば、
そういうことは結果であって、目的ではないのだ。問題は、そのような状況で何をするか
であって、そのような立場を占める事ではない。幸福とは感じることであって、「得る」もの
ではないのだから。

100万円を得たら、幸福か?違うだろう。その100万円でどんな体験ができるのかが、幸福か
どうかだろう。それ以上でもそれ以下でもないのに、多くの人は得ることばかりに注力する。
みんなが素敵だという彼をゲットして、結婚すること。それは自分の幸福と関係がない。
その彼と一緒にいることが自分にとってどれほど満足できるものかが問題なのだ。むしろ、
彼と一緒にいることで満足度があがるように行動をどう変えるのかに、幸福のタネはある。

人は本当に変わらないものだ。行動も思想も変わらない。でも、変われるものである。
変えようとすることはできる。脳をみると、25歳でおおよそ完成する。そこからは大きな
変化はない。その意味で感じ方やものの見方などは方向性を変えるのは難しいだろう。
だが、努力はできる。

変わる方法の一番簡単な手段は、環境を変えることだ。環境は人を変える。同じ会社に
40年もいれば、それは変わらないだろう。日々の生活のために働き続ける。そうして定年後に
途方にくれる。変わった経験がないからだ。そして、その不満や不全感は、世の中へと向かう。
そのような人は、自分の代理人を褒めそやす。現在ならさしずめ、安倍晋三氏だろうか。
自分の幸福とは何かを考えずにすごした人は、結局、代理人の幸福を指をくわえて過ごすだけだ。

巨人が勝った負けたで機嫌が変わるような人は、何かを勘違いしているのである。
野球は見るのもいいだろうが、自分でやった方がいい。体験としての何かを得る方が
圧倒的に良い。それが幸福だからだ。感じることを、それも嬉しさを感じることが幸福である。

行動の中にこそ、幸福がある。手に入れる事ではない。手にいれたもので、何をするかである。
立派な家を買っても、寝に帰るだけなら、どんな意味があろう。定年して、子供が巣立ち、
がらんとした空間に夫婦で過ごす楽しみを見出した人は幸せだ。多くの人達は、それが叶わない。

自分が望むものは、本当に自分が望んだものかを考えたほうがいい。
それは私自身の問題でもある。私も仮初めの欲望を満たそうと努力してきたのだ。
そして、自らを変えようと目下、努力中なのだ。

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凡庸な悪ー庶民のケースー [思考・志向・試行]

日本企業、とりわけ大企業に努めている人々は、すべからく罪人である。
これを否定したければ、反論をまつ。ぜひとも反論していただきたい。

私の友人にも大企業に努めている人々は少なくない。彼らは絵に描いたような善人たちだ。
だが、彼らは悪人である。物事はシンプルではない。善人にみえる人々こそが最大の問題なのだ。

製造業の人々は、必ず第三国のお世話になる。原材料を得るため、部品を得るためには、
第三国の安い労働力を利用せざるを得ない。そうしなければ、安い価格で提供できないからだ。
安い価格で提供出来るとは協力の高さでもある。同じような製品ならば、安い方を買おうとする
のが消費者である。

第三国の労働力搾取を悪とみなすのであれば、それを利用して製品を製造・販売して
儲けている人々は当然、悪であろう。服の縫製の労働力を搾取するからこそ、ごく安い価格で
ユニクロで買い物が出来る。これを善といえるだろうか。大きなプランテーションの農園から
安く農産物を買い叩くから、イオンやウォルマートで安い食品が手に入る。これは善か?

これを「庶民の凡庸の悪」と呼ぼう。自分が何をしているかを知らない人々による悪である。
無知の悪と呼んでもいい。彼らは単に会社に雇われて自分が任された仕事をしているだけという
だろう。そして、なぜその仕事をするかといえば、生活のためということだろう。そこに
起こり得る「悪」については自分は知らないという。そして、その「悪」を基盤に自分が
享受する富については「善」だという。この「悪」から「善」への変換がまさに現代の
問題なのだ。

グローバル化という言葉はただのジャーゴンである。無意味な言葉。そもそもなぜグローバル化
しなければならないのか理由もない。それを善だとのたまうアメリカ企業の論理であり、それに
抵抗するのは容易ではない。アメリカは要するに、第三国にお金と投下し、産業をおこし、
それを消費させ、投機が価値を生んだら、金を引き上げるという焼き畑農業のような事をして
儲けている。それは第三国のためでもなければ、自国民のためでもない。ただ、一企業の儲けの
ためである。そして、そのような活動に庶民は加担する。

労働力の搾取が行われている事をあなたは肯定するだろうか?否。おそらく良識のある人ならば、
それは否定する事だろう。一方で、生活をする仕事を邪魔されたら?抵抗するだろう。ここに
矛盾がある。自分が搾取構造を肯定している活動つまり仕事をしているのに、そしてそれは生活
のためと肯定するくせに、搾取を否定する。人でなしと呼ばれたくないからだ。

人でなしの活動を自分がしているくせに、人でなしと呼ばれたくないというのはわがままだろう。
生活のために仕方がないというならば、人でなしであると自己認識したらどうだろう。でも、
自分はただ、会社の仕事をしているだけだからという。その仕事が誰かの不幸によるならば、
どうしてその仕事を続けられるのか。

よく第三国の仕事について述べると、いや、日本企業が海外にいって雇用を増やしているのだから
良いことをしているという人たちがいる。それは搾取ではなく、良い事なのだと。それなら
あなたが第三国にいってその労働をすればいい。いや、同じ労働を日本ですればいい。したくない
というならば、それは良い事だと肯定出来るのか?安い賃金で働く事が彼らの幸福に貢献すると
本気で信じるならば、なぜ労働を他国に持ち込むのか。全く理解不能である。

要するに、第三国を利用して儲けを出す。これが今も昔も行われている金の儲け方なのだ。
それを搾取だと思うのなら、あなたの仕事は搾取であり、悪を行っているのだと自覚すべき
なのだ。そして、悪をやりながら生きていると認める他ない。

私がここでいっていることは、別に思想でもなんでもない。事実である。事実として第三者を
搾取することで、あなたの生活は成り立っているという厳然たる事実を言っている。もし、その
搾取を悪というならば、悪の行為は、あなたの行為でもあると言っているに過ぎない。

巨額の金を得るとは、結局、誰かを利用する他ない。自分で出来る生産性などたかがしれている。
だから、誰かと協力し、誰かを搾取することでしか、巨額の金を得ることはない。それが合法と
か違法とかいいたいわけではない。厳然として、大きく儲けるということは、誰かを犠牲にして
いると言える。

結局、事実を確かめるという努力と、その事実をしった時に何をするかなのだろう。
急には仕事は変えられない。生活のためには、今の仕事を続ける他ない。まあ、いいだろう。

じゃあ、あなたは自分の子供にこう言えるのか。「あなたは私が誰かを搾取した成果で、
生きること出来ているのだ。」そういう事を平然といってのけるのか。それが生活ではないか
という諦めに生きる気なのか。自分の親が「悪」を行って、自分を養っているという事実を
子供は肯定出来るだろうか?そして、ほとんどの日本人がこれを行っているのである。
恐ろしくないか?

他人に迷惑をかけないというのが日本の宗教である。それが、他人の多大なる迷惑をかける
事でしか、生活できない仕組みを作り上げた。なんとも皮肉である。ならば、その迷惑を
小さくする、きちんと対価を払うなど、行動をかえる事はできまいか。

スーパーなどで、むやみに安いものを買う事をやめないか。流行をおってForever21やユニクロ
で服を買うのをやめないか。我々に出来ることは多々ある。本当は悪を減らすことは可能なのだ。

生活が苦しい人々がいる。つまり日本において搾取される人々。だからこそ、安い商品を買う。
仕方がないようにみえる。でもその安い商品をつくるために、誰かがさらに搾取されている。
生活の苦しさとは、結局、他者との差でしかない。生きるための苦しさはこの日本においては
相当に小さいはずだ。であれば、他者との比較などやめ、生活の苦しさという観念も捨てて
しまえばいい。もちろん、これは理想論である。実践するならば、上記の日々の生活において
きちんと商品を選ぶことである。そして、悪どい企業の製品を使わないことだ。

凡庸な悪とは、仕事に忠実だからこそ起こる悪なのだ。あなたは悪を行っている可能性が高い。
気が付かない悪は悪じゃないというのは、無知である。生活のために仕方がないというなら、
あなたは殺されても文句は言えない。生活のために殺人することも許容される事になるのだから。
凡庸な庶民の悪を放置する事は、周り巡って自分の生活を脅かす。事実、日本はそうなってきた。

あなたが不安を抱える金の問題。仕事をしなければ得られない。しかし、悪を行って金を
得ることを肯定できるのか。他人を搾取することを悪と言わないと解釈すれば、逃れられる。
ならば、あなたをサービス残業させる企業もまた肯定する事になる。それは悪ではないのだから。

多くの人が搾取を悪であると自覚しなければ、自分が搾取されるのである。
この当たり前の事実を庶民は理解しない。出来ない。だから現状が維持される。
私としては、ここに絶望感があるのだが、そう思っていても仕方がない。

社会常識は、悪を肯定し、そうして日々が動いている。でも仕方がないと諦めるには、
まだ早いと私は思う。
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歴史という虚構ー真実は闇の中ー [思考・志向・試行]

多くの人は小学校、中学校で習った歴史が正しいと思い込んでいる。
重要なポイントは、思い込んでいるという点である。過去というものは、常に参照点であって、
”現実”ではない。現実ではないものは、常に架空のものであるという当たり前の事実を忘れて
しまっていないか。ここではそれを指摘したい。

現在、政治が不穏な雰囲気にある。これは現状を理解するものにとって正しい認識であり、
戦争を知るものには、あの出来事が思い返される。そう日清戦争から始まる日本戦後史である。
1930年代に、第一次世界大戦があり、この時の戦争への思想統制はものすごく強いものがあった。
戦後はその反動で、GHQにより教育プログラムが編成され、日本人は自らの敗戦により、
連合国から敵国としての扱いを余儀なくされている。現代人は戦後であり、戦争は終わったと
思っているのだが、それはまったくの誤解であり、現代もなお、戦争状態という扱いなのだ。

これをベースに踏まえたとき、明らかに平成が終わろうという時期に、戦争をはじめよういう
勢力つまりアメリカに日本が迎合し、軍備拡大へと舵を切った。その中心人物は、安倍晋三である。
ここに、記録として残そう。彼をパペットとして操る勢力が、金儲けのために戦争をもくろんでいる。
なぜなら、現代日本は経済的に終わっていて、そのカタストロフィが起こる前に、戦争による
経済てこ入れをしようとしているからだ。

多くの国民は、このうだるような暑さの中、何も考えずに日々の目の前の事に邁進している。
そうやって政治に興味をもたず、自分の生活に興味もなく過ごす人々が大多数を占める日本。
それは一重に平和ボケであり、誰しもが損得で動く時代である。その一方で政府が国民を
虐げているとここで書いても誰も聞きやしないことだろう。

アベノミクスの本質は、改ざんと隠蔽である。株価は操作され、国債は過剰発行され、
私的、既得権的に利益誘導し、福祉を削り、国民の税金をふやし、多くの資産を海外に売り飛ばす。
この結果として、経済指標などが一見よくみえている。もしくは見せる努力をしているのが、
アベノミクスである。嘘まみれであるというのは、彼らが退陣直前もしく退陣後に起こる、
急激な株価暴落や、資産価値の無価値化、それに伴い残る多額の国債という国の借金。
これからの時代、最悪のシナリオを考えると、現在が奇跡的な状況であるともいえよう。

もちろん未来は不確定である。トリッキーなやり方で危機を脱するのかもしれないが、
現状では、そんなことは到底起こらないだろう。

話を歴史に戻そう。

多くの人は、日本の歴史を直線で捉えている。その視点は古事記や日本書紀といった
書物に依存している。だが、よく考えてみて欲しい。現在進行中の”歴史”は、誰かの記憶
としてしか語られない。それを取りまとめている人がいるだろうか?組織があるだろう?
平成30年はこうこう、こういう年であったなどと、総括する人々がいるだろうか?否。
同様に、過去も総括できるはずがないのである。もし、出来るといっている人がいるならば、
それは大嘘である。我々が知っている歴史はどこかの誰かが特定の思想をもってまとめた
歴史史観であって、歴史ではないと理解されよう。

歴史史観は様々にあって良い。よく、事実を知るのが歴史であるなどと主張する人もいる。
だが、それも大嘘である。事実など知りようがないからだ。あるのは所詮、記述であり、
記述という事は誰かにとっての歴史史観である。歴史とは誰かの思想の一部として、我々に
伝えられているのだ。

この真理を踏まえた上で、私は別の歴史史観を提供したい。ここで書かれる事を事実と
みるかどうかは、受けての責任であって、私の責任ではない事を述べておく。私にとっての
歴史とは何かを述べるという事だ。

多くの人が完全に間違えているのは、歴史が事実であると考えている点である。現代人に
とって過去とは、物語である。それは抽象概念である。歴史が事実を伝えているという
事自体が、そもそも意味不明であり、間違った前提に立つ。われわれは、体験という事を
抜きに事実を把握する事はない。だから、決して体験されえない歴史の出来事は、非常に
抽象的な概念であると理解すべきなのだ。

では、なぜ歴史を教育させるのか。それは意図があるからだ。人を操るという意味である。
歴史を与えることで、1個人の中に、自己の立ち位置を作り出す。西洋的概念でいえば、
アイデンティティだろうか。私はこの語をきちんとは理解しないが、妥当な言葉がないので
やむを得まい。歴史という物語は、人の心的状態に作用する。そして、集団的生活における
ベースを生み出す。人にはどうやらそういう性質があるらしい。

この歴史とは、必ずしも過去ではない。歴史が生活なのだ。たとえば、あなたは洋服を着る。
洋服を着るというのは”歴史”の作用の結果である。富国強兵という明治を通じて、急激に
日本人の衣装は変化した。つまり歴史の結果としての生活。日本人らしく生きるという生活
に歴史が浸潤しているのである。

では、人々にどんな歴史観をもたせるのか。生活における歴史は親がやる。一般には文化という
言葉に相当するだろう。日常マナーから、嗜好性までを親から半場強制的に供与される。一方で
より大きな物語はどうだろうか。おそらく学校で教わる歴史がそれにあたるのだろう。かつては、
おじいさんの口伝だったかもしれない。村の長老の物語だったかもしれない。それが現代では
教科書に書かれる歴史になっている。ずいぶんと陳腐化したものだ。

歴史を語るには、さきほどいったように誰かの視点が必要である。理路整然としているわけが
ない歴史を無理に一本の軸で伝えるのだ。かなりアクロバットな行為である。だから、その
無理をしてまで作り上げられた歴史は、おおよそ抽象的概念なのだ。

ようやく前提条件が整った。具体的に我々が何を教え込まれたのか、強く言うなら洗脳された
のかを検証したい。

たとえば、大化の改新はどうだろうか?日本の歴史では珍しい話である。
また、聖徳太子はどうだろうか?

現代的視点で眺めなおせば、大化の改新は政治クーデターである。また聖徳大子とは、
架空の人物である。そう見ざるを得ない。この意味は何か。政治的勢力は、常に
武力的に制度を変更してきたという事実であり、それはクーデターによるものだという
事実である。そして、そのクーデターを正当化するために作られたのが聖徳太子という
伝説である。そんな人物はいなかったというのが歴史の示すところなのだ。詳細は他に
譲ることとするが、要するにこのような記載を示すことで、歴史に方向をつけようとする
意図が見えてくる。

数多くの場合、クーデターが成功すると、成功者は歴史の書き換えを行う。なぜなら、
その時代の正当とされているものを、たとえどんな大儀があろうとも、武力により、
制圧したならば、必ずや批判があがるからである。多くの庶民がそんなもの認めないと
考えたなら、そのような制度は早晩崩れ去る。よって、新たに政権を奪取したものは、
あたらしい物語を生み出す事になる。それにより自分が権力をもつという事の正統性を
示そうとする。

一方で、クーデターを謀った方は、実は恐怖している。特に権力者の命を奪った場合には、
その恨みをかうことを極端なまでに回避しようとする。その結果として、神社や寺が新たに
設置されたりする。どうやら人はそういう心理を持つらしい。自分がやった事を他人もやる
のではないかと恐れるのである。このような心性、つまり後ろめたい心持が、敵を霊的に
葬り去る乃至は閉じ込めておく事を要求するのだ。

日本書紀にある大家の改心というクーデターが示すところは、「政権を奪取するのに、
武力闘争は許容される」という事実である。つまり、お前がやったなら、俺がやっても
文句はなかろうと言われてしまうという事だ。

権力を武力闘争のなれはてとして認定するならば、誰でもクーデターは行ってよいのである。
それは鎌倉時代にもあったし、明治維新でも行われた。ところが、多くの歴史の教科書は
これを隠蔽する。現代社会が武力を肯定することを禁じているために、クーデターとは
かけないのである。たとえば、薩摩や長州、土佐といった場所から明治維新が起こったのは、
その恨みによるものだ。彼らは関が原の戦いで敗れた者たちである。島津と毛利と長宗我部
である。彼らは、江戸つまり徳川に対する恨みがあった。そして、そこでの教育はおそらく
打倒江戸幕府であったに違いない。政敵として幕府を眺めたことだろう。これが、歴史史観
の恐ろしさである。

新たに生まれた人間には、江戸に対する恨みなどない。ところが、誰かがこれを伝えた。
意図をもって伝えたのだ。子供たちは、それを連綿と持ち続けた。結果としての明治維新
というクーデターである。これもまた武力による権力奪取の物語になりえる。少なくとも、
こう見たほうが、私の歴史観にしっくりくる。人の行動動機に、教育の成果としての武力
闘争がありえるとみなすのである。

同じく、子供は簡単に洗脳される。歴史観を学校という場で、一斉に教えるというのは、
実に危険な行為であることが先の例からすぐにわかるだろう。どういうスタンスで人生を
過ごすのかといえば、教育なのだ。どういう思想を入れ込むのかが、人生を大きく左右する。

この意味で、歴史史観は非常に抽象的である一方で、具体的行動を体現するものである。
この世界観を揺るがすと、人は簡単に戦いを繰り広げることになる。オウム真理教が
1995年に行ったことは、宗教団体による個人の歴史史観の入れ替えであり、その教義に
おける武力闘争の肯定であった。クーデターである。

現代人をこれを悪魔の所業とみなすだろう。それは武力抗争を否定するという「歴史観」を
植えつけられたからである。だが、いったんそれをはずせば、クーデターはアリなのだ。
武力による権力闘争など、ごく一般的なものであり、それをやり続けているのがこの2000年間
の人間の歴史といえよう。そのためには、子供たちに特定の「歴史観」植え付ける必要がある。

現代の日本の教育は、なんにせよ、特定の「歴史観」を植えつけ続けている。それがどんな
意味をもつのか考える人間は、ほとんどいない。皆無である。だが、私は考えた。そして
得た結論は、武力による政権奪還とは、歴史の本懐であると。誰も非難できないことなのだ。

勝利を得た支配層、団体は、常に被支配者たちに、歴史教育をほどこし続けた。それは、
自分たちの武力闘争の妥当性を担保するためであり、自分たち自らが洗脳される事でもある。
その結果が現代日本人なのだ。

日本会議と呼ばれるカルト団体がいるが、彼らは現代社会の歴史教育を剥ぎ取り、異なった
歴史観を教え込まれていると推定される。そして、その彼らが政権を握った今、彼らの思想は
日本改造となり、新しい歴史観を植えつけようと模索しているように見える。彼ら勝者の
論理が正当となるように、我々の歴史観を変更しようと試みている。だからこそ、教育に口
をはさみ、長州中心史観への移行を猛プッシュしているのである。

ここで一度、自分たちが教わった歴史をリセットして考えてみよう。何も知らない人間に
なったと思って欲しい。その時、あなたのルーツは、今のホゲホゲの組織によってつぶされた。
だから、その勢力への対抗として生きろというメッセージを受けたとき、あなたはどうする
だろうか?

もし、あなたが中東などの紛争地域で育ったとして、自分の母親や親族がアメリカの空爆で
死んだとして、あなたはどんな歴史史観を身につけるだろうか?その時、ちからが圧倒的な
差がある主体にどうやって挑むだろうか?

このような暴力の犠牲という観念を植え付けるのは、とても危険である。もしくはそのような
体験は、すぐに自分の暴力を呼び覚ますであろう。歴史史観は実に危険な代物なのである。

我々はある種の歴史史観を植えつけられている。それはおそらく現アメリカに有利になる
ような思想体系である。それは武力闘争の勝者がおこなういつもの奴なのだ。当然我々は
その思想をうけとって生きている。仕方がない生きるとはそのようなものだからだ。一方で、
これを取り去る手段もある。その一つが歴史史観の書き換えである。特に宗教団体では
気をつけたほうがいい。抽象化して入れ込まれている歴史史観をゆさぶる方法があるらしい。

アメリカへの憧憬は、我々の根底をなす。それは先の大戦が事実だとして、いったん認めよう。
しからば、我々には何ができるのか。我々には思想的自由がある。その自由を駆使すべきではないか。
そのために一度、歴史を忘れる必要があるのだ。そうしておいて、うかつに誰かから歴史観を
植え付けられないように気をつける事。それが大事なのだ。

自分の教わった歴史史観は、到底偏っているという前提に、再度構築しなおす他ない。
その外へ向かって、志向を延伸させてゆく。その結果として、新しい歴史史観を構築する。
それには、解体と構築が必要なのだ。

しからばどんな歴史観がよいのか。歴史の文章を読めば、我々はまたもや特定の歴史史観に
心奪われてしまう。といって、事実を知らなければ、人生のベースを構築できない。これを
神話という。現代の神話にふさわしいのはなんだろうか?残念ながら、私に答えはない。
各自で神話を構築する他ないのだろう。

ヒントは身体性である。我々の身体は、歴史史観がインストールされてしまう脳よりも
広いシステムである。そして、生命誕生から38億年の洗練された仕組みである。意識による
歴史認識の妥当性はおそらくどれも不可能だろう。ならば、身体に問うことだ。38億年の
システムに聞けばよい。

そこで、再度いう。あなたの行動、思想、それはあなた自身のものだろうか?あなたの行動が
誰かの思想に依拠するならば、その根拠はなんだろうか。我々は、既に乗り越えられない
システムの虜でもある。その一例は、母語である。日本語というここ3000年くらいに作られた
仕組みによって、私は思考する。少なくとも、目印として利用する。このシステムが要求する
歴史史観が間違えなく存在し、日本語を操る人間として、すでに拘束されているのだ。

あらゆる言語圏から抜け出し、その先にある歴史史観を打ち立てる他ない。
正直、はなはだ困難に思える。常識的には無理に思われる。とはいえ、古来ヒトはこれを
試みてきた。たとえば、仏教における思考の滅却である。あらゆる思想などから自由になる
事。それが出来たとき初めて、偏見を脱することが可能なのかもしれない。

むろん、私には無理である。とはいえ、身体は現にある。だから身体に聞こうではないか。
身体が正しく反射するとき、我々はまさに正道をいくことだろう。
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