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知性とは何か? [思考・志向・試行]

あなたには知性があるだろうか?おそらく、相当に少ないことだろう。

のっけから喧嘩を売るような事を述べたのは、いかに我々が知性というものを
軽視しているかという事を示すためだ。それは単なるバカという事とは違う。
ヒトは動物であり、ほおっておけば、愚かな事をやりがちなのだ。

知性とはどう考えるか。私個人の見解では、特定の物事の見方や捉え方を単一化しない事や
言説を鵜呑みにせずに自己参照して検証を行う事が知性となると考えている。決して、
知識があるという事ではない。昨今やたらとテレビなどでクイズ番組をやっているが、
あれはヒトを知性から遠ざける代物である。知性とは<思考>の方にあり、知性とは
動的な作用の事なのであって、知っているか否かではないのだ。クイズ番組において、
いささかなりとも知性を感じるのは、時に推論や予測などが用いられるためだが、その
大部分は単なる暗記問題である。もちろん、知識がなければものを考えるのは難しく
なるが、経験によって考えるという技もある。

さて、ここで糾弾したいのは、昨今のSNS文化における反知性的な言動である。
我々には、一度、思い込んだ思考にはまり込み、考えを改められないという性質がある。
代表性ヒューリスティックスである。

我々は思考の節約のため、コストの節約のため、あらゆるサンプルから物事を判断する
事を避ける傾向がある。たいてい1度、せいぜい2,3度の経験から物事を判断してしまう。
これは、十分に合理的な行動である。今よりもかつては世界はシンプルであったし、その
ような把握の仕方も雑ではあるが十分に意味を持った。だが、現代はより複雑であるし、
その複雑さをマネジメントする必要があるのだ。

たとえば、とある店で店員が失礼な態度だったとする。すると、その店を嫌いになるだろう。
もしかすると、その店員だけが失礼かもしれないが、ヒトはすぐにその事実を汎化する。
たった一度、遅刻した人が、その後一度も遅刻をしなくても、遅刻魔であると判断される。
こういうような間違った判断が横行する。この誤った判断こそが、現代の社会問題なのだ。

ヒトの性質である代表性ヒューリスティック。思い込みを正しいと確信すると、ヒトは、
すすんでそれが正しいことであるという証拠を探し出す。そしてその証拠や理由が見つかる
と「ああ、自分はやっぱり正しかったのだ」と誤った信念を確信するのである。

この自分にとって都合の良い、事実とは異なる考えを強化する方向に思考するのだ。
そして、この思考パターンこそ、多くの争いの元凶となっている。

昨今SNSなどで出回る言説。自分が最初に受け止めたメッセージが間違えだとしても、
そのような誤解を他の人々もしていて、それを確かにする証拠(この証拠は間違えだったり
、偏ったデータ)により補間してしまうのだ。

「こんな事が起こっているのか!」と思想的に偏ったものや、誰かの偏見をWebでみる。
実はかねてから、自分の中にある偏見や差別的概念があるわけだが、その偏見において、
感じている事と同じ意見のものがいると気がつくわけだ。ネットは広いので、どこかには
自分と同じ考えの人がいて、その人が下手に”証拠”なるものを持っているとき、自分の
そもそもの見当違いを強化する事になる。

「誰かが安倍を批判している。その批判者は****な奴だ。」と断罪している人がいる。
常識をもっているなら、そのような言説はウソであると気がつく。だが、その人の中に
そもそも偏見があり、その言説がおそらく正しいと思っているのであれば、その断罪者は
仲間であって、ウソの流布者ではなくなる。すると、そのウソが自己内部で強化され、
「やっぱり自分の考えは正しかったんだ」という考えになる。

要するに、自分の思い込みがあったとき、ネットを参照する限りにおいて、
自分のもっている偏見を強化する方向にしか進まないという事なのだ。
なぜなら、世の中には同じような思考形態をもつものが必ずいるからであり、
ネットではそれを検索しえるからだ。自分が間違った信念を持ち合わせているとは
考えもしないのだ。むしろ、誤りを深めてゆく。

ならば、勝手に間違った考えで過ごしていれば、その人がトラブルだけだと
思うだろう。だが、問題なのは、ヒトは否定されると反発するのである。
どんなヒトも意見や考えを持っているが、その思考を批判されると怒るのだ。
そのような性質がある。そして考えを変えようとはしないのだ。

これが近年、問題になってきている。
それも客観的な証拠があったとしても、考えを改めないのはなぜか。
それは、自分と同じように間違えをおかしている<仲間>をみつける
事ができるからだ。つまり、愚者の集合体である。偏見に満ちた考えでも、
ネットにはどこかに仲間がいる。そして連帯をしてゆくのである。

その結果として、偏見に満ちた誤った思想を抱えた集団が形成される。
そして、もはや事実や証拠が彼らの耳に入っても、彼らの偏見に合わなければ、
無意識に、意図的に捨て去られる。ウソや誤解を信じているために、
それらの事実こそが嘘であると反発したりする。

ではなぜそこまで自分の考えに固執するのか。これはもっぱら幼児性である。
そして、知性が足りないのだ。幼稚で無思考な人々なのだ。思考とはこの
凝り固まった偏見を解除し、思想的開放をもたらす。そして知性はその助けを
する。しかし、それが出来ない人々がいるのだ。


このようなことが起こってしまうルールを整理する。
・自分は正しいと考えている。(幼児的自己中心性)
・自分の信念を支える証拠だけを探してしまう。(SNSの性質)
・自分の考えに反目するものは不快である。(不寛容)


ここに通底しているのは、知性がないという事。
簡単に言えば、バカである(知性のあるバカもいる)。
ここでのバカとはおかしな振る舞いを変更できない事である。
知性がまともに働かない事である。自己反省がない人間はことごとくバカである。


ネットにおけるバカとは、
0.そもそも偏見に満ちた世界観がある。
1.自分が正しいと思い込んでいる。
2.少ないサンプルから、持論を決定する。
3.一度決めた持論を曲げない。
4.持論をサポートする事実のみをかき集める。
5.批判を自分への攻撃とみなし、反発する。

結果として、広い意見や多くのサンプルによって、持論がウソと分かっても、
自分の意見を変えることはない。むしろ、批判に用いられる証拠すら、嘘だと
いい始める。つまり、前提として自分がバカであるという自覚がないのだ。

ルールを新しく追加しよう。
・自分がバカであるという自覚がない。

よって、批判は単なる攻撃としてしか捉える事が出来ないのである。
自分を疑うことが出来ないのは、知性が足りないのだ。

一方で、気になる点がある。
知性が足りないだけで、こんなに他者に対して悪辣になれるのだろうか。
なぜ彼らのような偏見に満ちた幼児性集団は、圧倒的に口汚いのだろうか。

おそらくは、自分が正しいという発想の下に、「俺はお前らよりも上だ」という
優越感があるのだろう。人は偏見によって、他者を見下すのである。
その優越感が、他者を批判する際に、ののしりとなるのだろう。

その背景には彼らがどこかで罵られ、蔑まされてきた経験があるのだ。
その劣等感の反発がこのような優越思想につながっている。バカが権力を
もつ事を渇望するのは、劣等感ゆえなのだ。

多くの物語で、ののしりを口にする人間たちが出てくる。彼らはすべからく、悪人や
心の貧しい人々として記述される。まさか自分がその彼らになっているとはバカな
人たちはまるで気がついていないのだ。そして、そのような悪辣な言葉は、自らを
傷つける。

よって、彼らは、バカな上に(反知性的)、自らの言葉で自らを傷つけ、
無自覚に心貧しくなり、その自ら生み出した自分の傷を守るため、他者を攻撃する。
それはある意味で同情的なまでの劣等感によるのである。抑圧された魂は、復讐を
行うのである。

そうまでして、守るべき彼らの面子とは何か。
ある種の自己愛性パーソナリティが、彼らを包んでいるように見える。
安倍というシンボリックな存在が、そのような連中らの心の琴線に触れるのだろう。
同じ思いを抱えた抑圧された感情の発露が、彼らにカタルシスを与えている。

不幸なものたちの連帯。だが、そのことによって今まさに日本がおかしくなっている。
持たざるものが持つ劣等感が日本を破壊することに血眼になっている。それは日本社会
への復讐となる。そして、その行動はすべからく、残念なおつむの人々の考えるそれである。

もう黙って見過ごせないところへきた。彼らの歪んだ思想が不幸を撒き散らしている。
戦後の社会は、結局、こんな人間たちを一定数生み出してしまった。彼らの憎悪は、
社会への復讐となって現れた。その心は、他者からの承認なのに、その逆をいく。
彼らは誰からも愛されなかった不幸な人たちなんだろうか。

そろそろ誰か教えてあげたらどうだろう。はだかの王様に、はだかだよと。
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幸福論ー3つの幸福ー [思考・志向・試行]

幸福論を考えてみたい。

おそらく、多くの人は幸福になりたいと願っているはずだ。
そこで幸福とは何かについて考えてみたい。

多くの間違えは、幸福を「手に入れる」ものと考えるところから来る。
幸福とは状態なのであって、手に入れるとかではない。モノのように幸福は扱えないのだ。
究極的には心の問題なので、あらゆる社会的条件は本質的に幸福とは関係ないといえる。
たとえば、大きな家や高級車。こういったものは、幸福とは無関係である。ただし、その
人物がプライドが高く、立派な家にすまないと満足できないという場合は意味を持つ。
けれども、それが決して幸福度を上げるわけではない。それから、地位や名誉。こういったもの
は、それを得た瞬間は嬉しいかもしれない。しかし、人はすぐに慣れるもの。得た喜びは
すぐに消えうせてしまう。すると、人は次から次に何かを得ようとする。その動機は、
とどのつまり、幸福な状態ではないからだ。

逆説的になるが、幸福を得ようとするほどに幸福は逃げてゆく。なぜなら、欲望を満たす事
で、幸福を得ようとする行為は、原理的に幸福ではない。どういうことか。欲望とは何かを
考えればすぐに分かるだろう。欲望とは欠落である。腹が減る、性欲がでる、こういった欲望
は物理的・精神的欠乏からくる。その欠乏感を満たすには、何かを得る必要がある。逆向きに
考えれば、幸福を得ようという欲望は、その欠落からくるという事。つまり、幸福を得ようという
心の働きは、まさに欠乏=不幸であるという心境からくるからだ。結果、得ようとする行為が
そもそも幸福ではなく、幸福から人を遠ざけるのである。

加えて言えば、欲望の完遂は、けっして幸福とは限らない。むしろ、それは幸福とは無関係な
出来事なのだ。だから、欲望の完遂で幸福になることあれば、不幸になることもある。
そういうことなのだ。そして、幸福という言葉の裏側なぞ何も無い。われわれが知覚できるのは
身体反応のみである。よって、本質的な意味での幸福は心地よい身体反応を求めることである。

さて、諸富氏の「生きづらい時代の幸福論」を参照して話をしようと思う。

諸富氏は、幸福には3つの種類があるという。
1.得る幸福 (モノや地位や名誉など)
2.自己成長の幸福 (欠乏欲求から成長欲求へ)
3.絶対幸福 (ギリギリの状態でも信じられる幸福論)

詳細は諸富氏の本を参照いただきたい。
ここでは私の持論をもっぱら述べようと思う。


欲望の充足という意味で得る事も幸福となりうる。だが、多くの欲望は簡単には手に入らない
と人々は思っている。しかし勘違いしてはいけない。実際には求めているから得られるのだ。
それは「人生の態度」のこと。

クランボルツによれば「計画された偶然性理論」というものがある。これは人生の成功者への
問いかけで明らかになったもので、多くの成功者は偶然を起点として成功しているという事実を
明らかにした。8:2で運だというのだ。その意味は、文字通りの偶然ではない。彼らはいるべき
場所にいるべきタイミングで現れ、その偶然を手にしたという事である。。とはいえ、ただ幸運を
口をぽかんとあけて待っていても始まらない。それには準備がいるのだ。

それは「やりたいことの自覚化」である。こういう人生を送りたいという明確な意思を持つこと、
そしてそれが心の深い部分で望んでいる事である。「やりたい」という衝動を抱え、それを他者に
アピールしているからこそ、そのチャンスはめぐってくる。なぜなら、チャンスが目の前を通った
時に、それと気がつかなければならないからだ。日頃から「やりたい」を自覚化していなければ、
物事を実行に移せない。

残念ながら、多くの人たちはこの「やりたい」という衝動を感じることが出来ない。それは
幼い頃から、行動や思考を制約されるからだ。そしてかつてのルールの中での自由しか与えられ
ないからだ。優秀であるほど、このルールに束縛される。つまり自分から発せられる「やりたい」
という事柄から自己を遠ざけてしまうのだ。そうして社会化されて大人になってしまった人々は、
もはや「やりたい」を自覚できなくなる。

とある人はいう「いや、やりたいことたくさんありますよ、海外旅行とかグルメとか、
車を買ったり、家を買ったり、子供を育てたり、恋愛やデートしたり。」たしかにそうだろう。
だが、これらのうち、どれが自分の元々のやりたい事だったのだろうか。むしろ、やりたい事が
沢山あるという事自体が、どれも本当はやらなくてもいいということを表しているのではないか。
そして、それは単に周りの模倣に過ぎないのではないか。それにこれらは消費ばかりだ。生産
つまり仕事はどうしたんだ?やりたい仕事はないのだろうか?

「やりたい」を見つけるのは、実に重要なのだ。それも押し付けられた事ではない。内発的な
衝動なのだ。その内発的な動機は日頃の生活では、しばしば社会的な立場によって抑圧されて
しまう。「あの服可愛いな、でも私はもう歳だし」といって、やりたいを打ち消す。「これは
指摘しないとまずいな、でも俺の立場じゃいう責任もないし、ウザがられるな」といって、
行動を抑制する。「あ、美味しそう、でも高いからやめとおこう、マックでもいくか」といって
やめてしまう。小さく出てきた内発的なものは主に体から発せられる。でも、それを頭が否定し
抑制する。これを繰り返すうちに、自己の本当の内発がわからなくなるのだ。実に恐ろしい
事である。自分の事なのに、わからないのだから。

これら小さなやりたいを叶える事は決して難しいことじゃない。歳に関係なく着たいものを
きればいい。まともな意見なら立場に関係なく述べるほうがいい。高いならどこかを節約して
金をため、そして高いご飯にいけばいい。どれも不可能ではない。自分の衝動に正直になる
事は可能だろう。もちろん、すべて可能なわけじゃない。「俺、宇宙飛行士になる」といって
いきなりなれたりしない。プロ野球選手にも誰でもなれるわけじゃない。でも、衝動があれば、
じゃあ、宇宙船の開発に関わる仕事を探すかもしれない、野球に関わる仕事を見つけようとする
だろう。それは幸福に近づくのではないか。

このような「人生における態度」が幸福への鍵になる。逆に言えば、われわれは常に
「今、私の人生で起きて欲しいと思っている偶然の出来事はなんだろうか?」
「その望ましい出来事が起きる可能性を高めるために、今、自分に出来ることは
 どんな行動をとることだろうか?」と自問すべきなのだ。

運の良いという人の特徴がある。それは好奇心・粘り強さ・柔軟性・楽観性・リスクテイク
である。このような要素を持つ人は”内面的に”幸運になれる。ここで重要なのは、内面的
幸運だ。実際に幸運かどうかは、実は死ぬまでわからない(万事塞翁が馬なのだ)。だが、
日々を幸運とおもってすごすかどうかで、人は人生の方向を変えることが出来る。それが
内面的幸運である。同じ事をどうみるかという態度の事だ。コップに入った半分の水、
もう半分しかないとみるか、まだ半分あるとみるか。どちらが幸運だろうか。そう、もう
気がついたはずだ。幸運とは自分で見出してゆくものなのだ。

自分で自分に暗示をかければいいという事なのだが、具体的にしたいなら、
運をよくする方法とは、「ふさわしい言葉・表情・行動」である。そしてこれは外部に
関わらず可能なことだ。つまり内面的幸運なのである。

不運もまた幸運の契機とみなす事は可能なのだ。それには行動が続くからである。
まだ水が半分もあると思った人は、次の行動を前向きに処理するだろう。もう半分しか
ないと思った人は、失わないようにと消極的になるだろう。この結末はお分かり頂けるだろう。


さて、内的幸運をつかんだ人はどうなるのか。そこには「出会い」「つながり」「ご縁」が
引き起こされる。これを同時性(シンクロニシティ)という。そして、この同時性が起こり
はじめると、チクセントミハイがいうフロー状態となる。フローを生きるとは、「適切な
場所で適切な時に、適切なことをしている」という実感であり、それは人生が意味と目的に
満たされた魔法のような出来事が頻発する」世界となる。

同時性とは、電話をかけようとおもった相手から先に電話がくるなどである。それは偶然
とは言いがたい必然性をもった偶然の事である。内的幸運を生きるとはそのような偶然を
引き寄せることである。それには内的な態度変化が必要なのだ。

フローを得るための心構えがある。それはごく簡単なこと、自己にうそとつかないという事だ。
そして大きな何かを信頼する事である。そもそも我々自身はなぜ生まれてきたのかを知らない。
その存在は、大きな何かに由来する。ならば、その大きな何かにゆだねれば良い。そのために
は、作為ではなく自発が重要になる。我々はともすれば、態度だけをまねようとし、何も内面を
変化させないようにしてしまう。大事なのは、自己の衝動をそのまま受け止めて行動すること
なのだ。

さて我々は多くの時間を仕事にさく。そのときどんな仕事を選ぶべきなのか。それはごく単純に
いえば、魂の生活と合致する仕事を行えということである。魂とは要するに自己の赴くまま
という事である。決して他者から押し付けられた、他者を模倣した行為ではない。自己のやりたい
を顕在化させることだ。そして、幸運を得られる行動を続けていれば、そのうちにチャンスが
巡って来る。

一方で、そのように仕事を出来ないこともあろう。もし魂と合致しないのであれば、なるべく
仕事を最小に留める方がいい。キルケゴールやニーチェはいう。1日に3分の2以上の自由な
時間を確保せよ、さもなくば’精神的奴隷’となるだろうと。これは、一日の睡眠を7時間と
するならば、仕事は5時間40分以内にすませろとなる。おおよそ6時間であるが、これで済ませる
人はそんなに多くないことだろう。むしろ、大半のサラリーマンはすべからく精神的奴隷であろう。


欠乏欲求と成長欲求とはマズローの主張である。マズローは、魅力的な二人の偉人、
ウェルトハイマーとべディクトをみて、彼らを心理学的に説明を試みた。それがあの5つの欲求
ピラミッドなのだ。マズローは、自己実現という概念を主張したのだが、その中に、成長欲求
というものを見出した。多くの人は、欠乏によって駆動される。ここでいう欠乏とは物的・
精神的どちらもである。そして、それは結局のところ、精神的欠乏なのだ。たいていの人は、
なんとか暮らしている。それは物的にはまかなえているという事になる。ところが、多くの人は
何かしらを欲しがっている。

その欠乏は捏造されたコンプレックスからくる。もう少し背が高ければ、もうすこし痩せていたら、
そういう造作におけるものだけではない。センスがもうちょっと良かったら、あんな立派な家に
住めたなら、ああ、部長になれたらな、そういう願望の根幹は誰かに入れ知恵の結果なのだ。
それは文化の違いをみれば明らかだろう。アマゾンの奥地に住む人々は上記のようなことを
考えるだろうか?否。それは文明病とでもよべる精神状態なのだ。そして多くの日本人が、
なんらかのコンプレックスを金で解決しようする。それは金で解決できるような気がするからだ。
もちろん、元々そんなもの幻想であるがために、金でそれを解決したところでマイナスがゼロに
なるだけなのだ。このような欠乏を社会が作り出し、それを埋めるように行動する時、その欲望
を欠乏とよび、欠乏の欲求とした。

ちなみに、資本主義とは、この欠乏を駆り立てる装置でもある。多くの人がマスプロダクトの
恩恵に浴するには、多くの人が欠乏を意識させられる必要がある。そして、欠乏を解消する
仕組みが必要となる。つまり資本主義は常に「何か足りない」と思わせ、それを金で解消させ
ようとする事になる。それは結果として不幸そのものではないか。もう少し過激なことをいえば、
欠乏欲求こそ資本主義の根本である。欠乏をいかに感じさせて、新しい商品を売りつけるか。
この繰り返しが出来なければ、現代は回らないのである。それは結局、誰にも幸福になるなと
叫んでいるに等しい。つねに欠乏を感じ続けろ、これが資本主義の主張なのだ。これを池田氏
は「欲望のキャナライゼーション(運河化)」と言った。広告とはまさにこの欠乏を生み出す
装置そのものであろう。だからこそ、広告に金がめぐるのである。(広告=メディアの意味)
資本主義のインターフェースはメディアにある。

マズローが考察した心理は、社会的エリートについてであった。欠乏欲求をあらかた満たした
裕福な人々の中に、自己実現のために行動する人々が現れたのだ。その行動は、正義を求め、
名声や栄誉をもとめず、誰からも愛されることを必要としない事であり、現実離れせず、
成功を求め、世界をあるがままに受け止め、その改善を求める事だ。個人的には少々、
美辞麗句がならび過ぎていると思われるが、それは欠乏欲求から自由になるほどに、働く
正義感であり、サルという人類のひとつの在りようを描く。マズローは自己実現を欲求にする
成長欲求をみたのだ。そして、それこそがひとつの幸福の在りようであると。

現代日本は、欠乏欲求の減衰が起こっている。それは残念ながら欠乏欲求を体言したから
ではなく、むしろ欠乏を社会的に抑制したからだ。欠乏欲求の充足なき成長欲求への希求と
なった。このおかしさがある。一部の老人たちは資本を大量に持つが、どこにも投資先がない。
理由は、ようするに若者に金を配らないからだ。人口の分布図をみれば、どうして現代が
こうなっているかはすぐにわかろう。要は団塊と団塊ジュニア世代の数が多すぎて、
アンバランスなのだ。これらの世代が小金を持つと、どうなるのか。消費しないのである。
金を手元にただ置いておく。なにしろたいていの事は遊んだ世代なのだ。そして今更
そんなに元気もない。ならば、金はただ口座にとどまるだけだろう。一方で、若者は、
バカなので投票にもいかず、団塊のいいなり政権によって、税金だけはがっぽり持っていかれる。
そのうえ、政策的にも賃金上昇を抑制されている。結果として金が若者の手に納まらないのだ。
それは擬似的な欠乏欲求の抑制に向かう。

結果、老人たちは使い道がなく欠乏欲求を弱め、若者たちは先立つものがなくて、欠乏欲求
から離脱を図る。認知的不協和になった若者は、そもそもそんな欲求はないかのごとく振舞う。
もしくは、価値観を変更する。実際に現状に甘んじても仕方がないと思う優秀な若者は、
大企業などには就職しない。彼らが得られる金銭的対価をすて、もう少し自由に自分たちの
やりたい形で労働をすることを目指している。おそらく今後はこちらが主流になる。今、
大企業に入る若者は、小賢しくも大人しくていい奴らだろう。だが、そこにはイノベーションは
ない。ただ前例主義を踏襲する人々の群れになることだろう。

さて、話を戻そう。マズローは成長欲求に生きる人を幸福であるといった。それは、具体的には
魂の生活に合致した仕事を選べということと同義であろう。それが出来れば、7割がた幸せに
なったといえるのではあるまいか。

最後にフランクルの人生態度を紹介しよう。それは諸富氏がギリギリの幸福とよぶものだ。

フランクルはいう。どんな人生にも意味があると。人は人生とは何なのだと問うてしまうもの。
でも、違うのだ。むしろ、人生から人に対して、どんな人生の意義を実現するのか?と問われて
いると主張する。

多くの人は幸福を求めて、やりたいことをするために努力し、それを実現する事が人生の
成功であると思っている。そうではない。人生の意味や使命を実現してゆくのが人生なのだ。
では、その使命はどうして知ることができるのだろう?

それには日々考え続けなければならない。
「私は何を求められているのか?」「私のことを本当に必要としてくれる人はどこにいるのか?」
「その人のために何が出来るのだろうか?」

そして、自己に張り付いた紛い物の欲求を捨て、本当の真の自己の欲求を顕在化させる
必要がある。自分にとって意味あることに取り組んでいる時、それは「幸福」と呼べるだろう。


諸富氏はいう。まずは世界には大きな流れがあると。そして、見えない世界から常に、既に
呼びかけの声が届いている。その呼びかけを身体で受け止め、応えてゆく。大きな流れの中で
使命が顕在化され、共時的な現象がおきてゆく。そしてソウルメイトに出会い、つながりを
大事にする。こうする事で幸福がもたらされるのだと。

少々宗教めいて聞こえるだろう。それは私も思うこと。だが、我々は人生について何も知らない。
そもそもなぜ生まれてきたのかさえ知らされない。だがこの世界の何か大きなもの、流れの中で
自分が存在していることは間違えない。ならば、我々はまた信じればいい。世界を構成している
存在が行うことを。それは結局、人智を超えた何かなのだ。現代人はあまりにも不信に偏り過ぎた。
それがために、安心・安全に生きようとする。そうして自らを雁字搦めのルールに縛りつけた。
そんな人類が頭で考えたちっぽけなものが、どうして世界のルールに抵抗できようか。ならば、
今一度、不信を破り、世界を信じてみたらどうだろう。そこに新たなる知恵があるのではある
まいか。

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突き詰めていくとビジネスとは「満足」の提供 [思考・志向・試行]

ピータードラッガーはいう。
「真のマーケティングは、顧客から出発する。すなわち人間、現実、欲求、価値から出発する。」

つまり、人が求めるところを提供せよと。
だが、多くの人はここで間違う。ならば、客に聞いて客の好きなものをだせばいいのだと。
そういうことではない。提供すべきは、客の満足なのであって、客の好みではないのだ。

だいたいにおいて、それが出来れば人間関係はたいていうまくいく。
相手が何を求めているのか、それも真に何をもとめているのか。

彼女や嫁さんが彼氏やだんなに文句言う。気が利かないとか、育児を手伝ってくれないとか。
その文句そのものを受け取って、対処するのは果たして真の正解なのか。いや明らかに違う
だろう。彼らの不満の根源は、彼氏や旦那が「自分のことを愛してくれていない」と感じさせて
いるという点に他ならない。それは小さな態度や口ぶりなどかもしれない。ともかくも、自分の
態度が相手に不満を生み出しているということなのだ。だから各論は、その表れなのであって、
実態は心の問題といえる。

ビジネスもすべからくそうだ。ビジネスで提供するべきは満足でしかない。もう少しちゃんと
いえば、「喜び」を与えることだ。それは肉屋なら肉を提供する事であるし、サービス業なら、
サービスを提供する事だ。一見無関係に見えることでも、金が動くとは誰かが喜びを得ること
を提供したから、金がうごくのである。これを無理やりやろうとすると、「騙す・脅す」など
を駆使することになる。

保険会社がサービスを提供できるのは、人生は「生老病死」が必ず存在することによる。
これに対して、お金という形で対処しようとする。そのときにサービスが発生し、それを
受けた人は「安心」という気持ちを得ることで満足する。つまり保険が保険として成り立つには、
将来に不安がなければならない。不安の源泉は、生老病死である。そして、その未来を感じ取る
能力に優れているほど、不安を抱えることだろう。そのような人は保険会社のカモとなる。

それでも、保険会社が成り立つのは結局、客に満足を与えるからである。
同様なことは、思春期の若者のファッションにもいえる。人はどんな服装をしていても
生きられる。ならば、実際的な場面ではなんでもいいはずだ。だが、実際には拘る人は多い。
その理由として、服装とは自分がどう見られるかを規定する装飾だからだ。自分の見せ方に
直結するために、どんなものでもよいとはいえない。そして流行がある。流行を追うのは、
もっぱら自尊心の低さなのだが、そのプライドを保つため、人は服にコストをかけるのだ。

人にはプライドがある。そのプライドを保持するためには金を惜しまない。
ブランドとは、そのためにあるといってもいい。本当の意味で、その物品の価値は限界がある。
だが、人のプライドには上限がない。どうしてフェラーリに乗るのか。きっとある段階までは
性能やデザインなどの質のよしあしなのだろう。だが、特定の価格になった途端、それは、
プライドの問題に変わるのだ。よいブランドを身に着けている「俺」ってすごいという満足感
なのである。

これはあらゆるものに張り巡らされている。学歴も、仕事も、あるところからは見栄の問題だ。
東大であることにプライドがある。トヨタや銀行などで働くというのもプライドの問題だ。
給与のよしあしも、大概なところで、満足度は収束する。ならば、それ以上に稼ぐことは
ナンセンスだが、それでも、人々は金稼ぎをやめない。それは、不安やプライドに絡めとられ
ているからだ。要は、自尊心の問題なのだ。そして、それを埋め合わせるために人は行動する。
その心理をうまく利用するのが、ビジネスの一面である。人が求めているのは、そういう事で
あって、決して、コーヒーとか服とか、そういうモノそのものを求めているわけではない。

その意味で、昨今のビジネスがやるべきことは、AIでもなければ、イノベーションでもない。
そんなものは必要条件であって、目的ではない。ビジネスの目的は人の満足する所を提供する
事である。では、昨今人々に一番欠けているものはなにか。

生老病死に関することは、保険があり、病院があり、寺がある。小金があれば事が足りている。
生活全般も、小金があれば満足できる食事が出来る。中高年であれば家のローンも返済めどが
ついた頃だろう。すると不満はもっと、別の次元にある。たとえば子供の事。子供が社会的に
まともになってほしいと願う。そのためには?親たちはすぐに教育を考える。何かを教え込めば
良いと考える。だがまってほしい。子供とはそんな存在なのか? 別の例なら、話し相手だろう。
仕事を定年した親父たちは、女性たちと違って、交流をもたない人が多い。彼らはフラフラと
町にでるが、やることもないのでパチンコなど公営ギャンブルにはまったり、それこそ昨今の
キャバクラのような場所やゴルフか、そんなものでしか暇をつぶせない。だが、彼らが真に
求めているのは、話をする相手なのだ。それも、自分にとって都合の良い相手を。だが、
そんなものはありはしない。

他者とのコミュニケーションを金で買うような作業に費やしても、本来むなしいだけだろう。
金がなければ、誰とも話せないような人が増えている。風俗なども性を売り物にしているが、
本当に重要なのは、誰かが自分の存在を認めるという点にある。たとえ、金目当てであっても、
他者が自分を認めてほしいと人は思う。そして、このあたりが実はビジネスの限界である。

人々が求めているのは、実は良い人間関係なのだ。衣食住が足りれば必然的にそうなる。
その良い人間関係はどこにあるのだろうか。人によっては東京を脱出し、地方にいくだろう。
東京とは上記の、不安の渦中に追いやられる場所であり、何をするにも金という対価をもとめ
られる場所になりつつある。人の尊厳が金という幻に支配されてしまっているからだ。そこから
脱出して、人が人として存在しえる地方にいくのは間違っていない。一方で、東京や都市でも
なんとかやろうとしている人たちがいる。それは求める所を自分で知っているからである。

多くの人は勘違いをしているのだ。金を得れば、すべてがうまくいくと。違うのだ。金は
あくまで媒介物である。金は人々のコミュニケーションを促す仕組みに過ぎない。それが
目的化しては無意味なのである。だからこそ、かつてより大金持ちの「不幸」もまた様々な
形で表現されてきたのだ。

人の信頼とか、人の在りようは、その人の稼ぐ能力とは必ずしも関係はない。むしろ、人が
良いとかいわれるのは、人というサルとして当たり前の事が出来るという事だ。サルをよく
観察するがいい。彼らは挨拶をする。彼らは毛づくろいをする。えさを食べる。家をつくる。
仲間と放浪する。時に狩をする。われわれもまたサルなのだ。このような行動をするときが
一番、安心できるはずなのだ。そして、このような行為につながる知識や知恵を得ることが
喜びなのだ。これを「生活」という。

現代人、とくに都会に住むサラリーマンは、生活から疎外されている。生活のあらゆるものが
他者によってビジネスによって供給されている。つまり「生活してない」のである。もし、
仕事を通じて他者への満足に直接貢献できるなら、それは幸運だろう。単に書類を書いたり、
数字を計算したり、自分の行為が間接的にサービスにつながるとしたら、どう日常的に
喜べばいいのか不明である。このような人間的に疎外された仕事こそ、実は高級とりなのだが、
そのどうして稼いでこれるのか不思議な金で生活を買うことになる。

サルとしては、一番不幸なのは、実は数字をおいかけて日々をすごす人々である。喜びの
提供を直するわけでもなく、生活も自分で営むわけではない。そういう状態ですごす事で、
実は心理的には不安を増大させる。それはサルとしての本姓に逆らっているからだ。それを
解消するには、とにかく金を稼ぐほかない。だが、その金を稼ぐ仕事そのものが不安を
生み出している事に気がつかないのである。この負のフィードバックこそ、人々が資本主義
と呼ぶものである。

絶えず、人々を不安にし、その解消として消費を促す仕組み。資本主義の説明は本来違う
のだが、その実態はそういう事だ。そして、この枠に組み込まれることを世間では「立派な
社会人」というのである。サルとしての不幸を追求すると社会人として立派になるのである。
この社会では、やせ我慢が出来る人ほど、立派なサラリーマンになれるわけだ。我慢比べなの
である。

再度いおう。多くのサラリーマンは生活をしていない。生活の知恵や知識を増やすわけでもない。
仕事がそのように出来ていないからだ。するとサルとしての満足に事欠くようになる。結果として
その埋め合わせをすることになる。生活の埋め合わせと、精神的な埋め合わせだ。生活の埋め合わせ
は金でなんとかなる。一方で、精神的な埋め合わせは金では困難なのだ。考えてみれば明らかだ。
金で買った友情は、なんか紛い物にみえるだろう。金で買った恋愛は、幻想ではないだろうか。
金で維持している家族は、果たして本当の家族なのだろうか。ほら、あなたはどれかにはまり
こんでいないか?

一次産業に従事している人たちは決して儲からない。なぜなら、上記の原理にやはり従うからだ。
金は誰かの満足度に跳ね返ってくる。作物を作っても、魚をとっても、売れる量はだいたい
決まっている。どこかに上限がある。一方で、彼らは幸福でもある。彼らの仕事は自然と
立ち向かうこと。作物の生長を願い、魚の収穫を願う。そのような精神はサル的満足を満たす。
そして、生活のための知恵や知識が増える。収入は少ないが、その分サル的に満足するのだ。
きちんとバーターされているのである。

もちろん、現実はこんなに単純じゃない。サラリーマンの中にも、仕事からサル的満足を得られる
人もいるだろう。毛づくろいのような関係性を築ける仕事もあるかもしれない。一方で、一次産業
の人の中には、作物が金に見えて仕方がないという人もいるだろう。それでは都市の人間と何も
変わらない。結局のところ、自分がどこにいるかというよりも、どういう態度で生きるかなの
かもしれない。

とはいえ、構造的に立派な社会人とは、常に不安を抱え、その不安解消のため金を稼ぐことを
是とし人生を捧げる人の事をいう。ビジネスはこのような人を対象に行うものなのだ。サル的
満足を日々得ている人々にビジネスするのは難しい事になる。結局、ビジネスが回るという
事は、不安・不満を抱えている人々が多いことに相当し、その不安・不満を環境資源をつかって
補完するという作業なのだ。そう考えるとやや空しい。

さて、そんな社会人を生み出す事が教育なんだろうか。本当はサル的満足が何たるかを教え、
どういう生活があり得るのか、社会をどう変革するかを考えさせるのが教育じゃああるまいか。
つねづね、人は誤るものだと思う。あなたの仕事と生活はどうなっているだろうか?
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日本社会の圧力ー変なルールー [その他]

情けないことに、自分で決定したことに自信を失いかけている。 何かに巻かれて生きるほうがどれだけ楽かを実感する。 その実感の中で、何ができるのか。 不安感は焦りを生む。世間における「真っ当」という行動から外れることの怖さ。 自己イメージを失わせる仕組み。そうか、これが社会の圧力であり、現代日本の正体。 誰でも自由に生きているなど、まるで嘘だろう。 自発的な行動を本当の意味で行ったら、この社会はもっと健全になる一方で、 現状のような生産性や効率性は保持されないことだろう。諸外国のようにでたらめな 部分が生まれてくるに違いない。だが、そのような社会のほうが幾分か健全だ。 日本社会はあらゆる場面で、我慢を強いる。忍耐力というけれど、その忍耐そのものが、 義務化されている。理不尽を我慢する能力こそが、現代社会の本質にある。だから、 学校教育では、理不尽な行為に我慢できる人材を育てようとする。それはつまり、平和な 時代の「兵士」たちである。文字通り、企業で働く兵士になるために。 上司がいう理不尽は、身近にある我慢である。全うに考えたらなぜ?となる主張でも、 部下は受け入れざるを得ない。するとその場では物分りのよい振りをする事になる。 だが、あとでその時発生した感情は、ザラザラと心の中に沈殿し、あとで愚痴となって、 タバコの煙に漂うことになる。そのちいさな不快感は、その人の人生に沁みる。その不快感が ちがう場所にしみ出る。たとえば、家庭で、妻に子供に発揮される。そうやって小さな 復習をすることで、人は正常を保つ。 だが、その小さな復習は、子供の中に熟成される。その子供は友達に感情をぶつけてゆく。 それは大人の真似であり、触れてしまった毒気を抜くための自助行為なのだ。 社会は間違えなく、理不尽を動力にして動いている。そうでなければ、日本などまともに 動くはずがない。一方で、日本全体はおおよそ狂っている。大抵の人間が忍耐に生きるなんて とてもまともに思えない。忍耐の習慣は戦中に身に着けた行動なのだろう。戦後70年たっても まだその影響力があるのだ。 大抵の人は我慢している。だから、我慢をしない人間を妬みの感情から、容赦なく叩くのだ。 昨今の不倫問題や、暴力行為や、モンスターペアレンツなども、この忍耐の思想から生まれる。 「俺はこんなに我慢しているのに、抜け駆けして我慢を回避している奴がいる!」つまりは、 嫉妬なのだ。この不満の噴出は日本だけに限らない。世界的に発生している。たとえば ブレグジットは、そういった感情によって起こった。トランプ政権も同様だ。 我慢は人を成長させる。そう思い込んでいる。おそらく嘘だ。これは、人々を互いに 縛り付けておくための言い分なのだ。相互に我慢をさせあうように仕組まれているのである。 誰かが抜け駆けをすると、それに制裁を加える感情が生まれる。それは我慢を強いる社会 だからだ。そして、あらゆる面で、我慢こそ美徳であると教えるのだ。それは結局、民主主義 の崩壊へといざなう。 政府がどんなことをしても、大抵の日本人はそれを受容する。それに不平をいうのは、成長が 足りないとか、忍耐が足りないというように扱われてしまう。その異常さにどうすれば気がつける のか。日本にいると、そういう事が内面化されすぎて、不自然に感じないのかも知れない。 忍耐を強いる社会。先進国は多かれ少なかれ、忍耐を強いる仕組みに生きている。 そしてその忍耐もそろそろ限界に近づいている。きっと我々の我慢の限界に来たとき、 人々はいよいよ、暴発するのかもしれない。戦争になだれ込んだり、社会不安が冗長されるの だろう。 本来は、社会の安定さを担保するために秩序、つまり法がある。だが、日本では法はただの 文言である。人々は世間というルール、それを遵守するよう求められているのだ。ところが、 そのルールが発する作用によって、人々を我慢を強いられている。結果として、我慢した人は、 どこかで鬱屈した感情を溜め込むことになる。これが仕事場や生活の場でもれ出るのだ。 そうして、社会は不寛容になってゆく。すると、逆にこの不寛容さに触れないために、予め 予防線を張ることをし始める。このラインはどんどんと程度があがり、人々を縛り付けてゆく。 これをしてはいけない、あれをしてはいけないと。その結果として、強いパターナリズムと、 それに盲従する庶民がうまれてくる。なにしろ歯向かうだけ労力がかかるうえに、社会的に レッテルを貼られてしまうために、不利なのだ。サラリーマンが政治的な事をもっともタブー とされるのはこの予防線のためなのだ。変なルールだらけなのが日本なのである。 もう少し、いい加減さを取り戻さないか。そうでなければ、いずれポキっと折れてしまうに 違いないのだから。
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侵食される思考からの離脱ー常識外へー [思考・志向・試行]

地方にいた時は、ある意味で孤独であった。テレビをやめ、多くの本を読んだ。
ネットにあがる情報の偏りは知った上で、多くの人が過ごす現代社会の常識を懐疑した。

その時に生まれた感情は「だまされた」であった。

もっと正確に書こう。自己決定とはなにか。そういうものを研究していた。
人は行為において数々の決定を繰り返して生きている。朝起きて何を食べるのか、
顔を先に洗うのか、寝癖を直すのか、トイレに行こうかどうか、たった朝10分の
行動ですら、決定の連続である。そういう行動の基盤となる脳機能とは何なのか。
それはまさに自由意志の根幹であろうと思っていた。

脳は大きく4つのパートがある。生命維持に欠かせない場所、情動や実際の行動を
制御する部位、これらの部位をコントロールし調整する部位が2つあり、一つはAIの
ように機械学習をする部位であり、もう一つは、我々を我々たらしめている場所である。

これらの部位のどこに、意図を制御する部位があるのか。それを理解すれば、我々の
意志決定も理解できるのではないか。素朴な仮定から検討を続けていた。

脳は簡単に言えば、入力に対して演算をして、出力をする装置である。哲学的な問は
ひとまず脇において、外界の存在を信じるならば、この出力結果は外界の出来事と合わさり
新しい入力として機能する。その入力に応じて、脳は適切な行動を行うように変化する。
つまり、行動と結果の間になんらかの評価を与えるのだ。それはもっぱら「快」と呼ばれる。

この流れを単純にすれば、知って、考えて、行動する。である。つまり、現象は螺旋なのだ。
時間を単純な一次元の軸におくならば、そこに立ち現れる現象はサイクルを時間方向に伸展
させた形で進行する。螺旋なので、一見同じにみえる事も、微妙に異なる。同じ事は二度と
発生しない。あたりまえだ、それが人生なのだ。

さて、人の行為には決断がつきものだ。あなたは自分の行動を自分で制御出来る。
そしてそれが意図の結果として捉える。だが果たして本当か?

ここで前提を覆す。調べれば調べるほど、残念ながら我々の行動には自由意思を見い出せ
なくなるのだ。あなたがそこで食べているものは、果たして自分で選んだのか?否。
それは、あなたが生まれてからどこかの段階で、食べられるものとして学び、習慣化した
結果として、その食事を”選んだ”のである。要するに自己の行動は経験による知識の結果
ではなく、連続的経験の帰結として現れるのである。似たようなことを言っているが、
まるで違う。

あなたは何が食べられるかを知っている。それはなぜか。それは食べたことがあるからだ。
もう少し拡張しよう。それを誰かが食べているのを観たことがあるからだ。どちらも経験
である。入力があり思考が起こる。その結果として食べるという行為にでる。だが、この
プロセスのどこに自由な選択があったというのか?

あなたは何かを選んでいるつもりでも、何も選んじゃいない。あなたは環境に適応している。
そして、その適応してゆく状態を「成長」などとよんだりする。あなたの行動のほとんどは、
かつての行動である。その応用としての今の行動である。子どもの頃の不器用な筋活動を
思い出せばいい。だが、今は簡単に手を動かせるだろう。身体を動かせるだろう。それは、
かつての入出力の繰り返しとその調整の結果なのだ。同様に、吉野家をみたら牛丼を食べたく
なり、ガストをみればハンバーグが食べたくなるのである。

なぜ街中に広告があふれるか。それは広告を観たという経験が人の選好に大きな影響を及ぼす
からだ。もしあなたがマックを食べたくなったとしたら、それは数ヶ月前にみたマックの広告
のせいかもしれないわけだ。人の行動は、行動に伴う快不快を通じて強化され、調整される。
その意味で、我々の大抵の行動は自分の意思ではなく、誰かが仕組んだ結果なのである。

もう少しこれを拡張しよう。あなたが社会人として立派にサラリーマンをしているとしよう。
それは実に喜ばしいことである。その一方で、悲劇的なことである。その行動はあなたの意思
なのか?違う。それは誰かがそうしていたからに過ぎない。親かもしれない、友人かもしれない。
でも、それは何が食べられるかを理解するときと何も変わらない。誰かがそうしていたから、
あなたもサラリーマンをしているのである。

その行動を奇異に思わないのは、多くの人がそういう行動をしているからだ。数百年前なら、
着物を来て、髷を結わなければ、おかしな人だった。つまり行動は他者の模倣に依るのである。
そして、それは決して自分の思考の結果ではない。

社会的行動ですら、そうなる。人とのコミュニケーションですら、他者の真似になる。
子は否応なく、親に似る。親の問題行動は、子どもの問題行動となる可能性が高いのだ。

ようやく、議論の下地が出来た。我々の行動は、自由意思に依るものであると思いきや、
大抵の場合は、何らかの模倣なのだと。するとどうなるか。

かつての人類は小規模のむら生活であった。この村社会においては100人程度の集落だ。
その他者の行動をみながら、模倣し自己の行動に取り入れたことだろう。十分にそれで
生活していけた。人はこの時から、生物的にはさほどの進化はない。つまり、周りの
100人程度の行動の模倣を基盤に生きることになる。

ところが、定住生活が始まると富の蓄積が可能となった。穀物の備蓄が人類を変えた。
所有が一般的になると、それを守る必要が出てくる。余剰の備蓄は、仕事の幅を広げた。
腕力で村を守る人々が形成される。そうしなければ、外部との小競り合いから村を守れなかった
のだろう。一方で、協力的に村を行き来する人々も生まれてくる。すると集団間での行動の
違いが顕著となる。異文化交流である。

他者の振る舞いを取り入れるという能力は保持され、それが異文化つまり他の村から
もたらされるようになると、人々の行動様式は一気に広がる。行動様式は人々の間を
ジャンプしてゆくのだ。こうして、元々の行動様式に加えて他の地域の行動が取り込まれてゆく。
これを数千年繰り返した結果としての現代。そのような視座から我々の行動を理解したい。

すると何が重要か。もしあなたが一流の人になりたいと思ったら、その道の一流の人と
一緒に過ごすことだ。行動は模倣される。一流の人の行動パターンは、それを求める人の
中に埋め込まれる事になる。良い活動をしている企業に就職すれば、良い仕事の手段を
知ることが出来る。模倣を舐めてはいけない。模倣が人を変化させる大きな要因なのだ。
それは先に説明したとおりである。

逆に言えば、模倣は特定の環境にいなければならない。なぜなら、我々は入力を経て、
思考・認知し、出力をする性質をもつからだ。書物によって知識を得ても、実際の生活に
対して利用しなければ、つまり出力しなければ、思考は先には進まず、行動の調整も起こらない。

人には言語という特殊能力がある。それは自分とは時空間的にかけ離れた人間の経験を
取り込むためのインターフェースとなる。これは驚異的なことだ。だが、その真価を発揮
できるものは少ない。一流の人が書いたものをそのまま実行できないのだ。なぜか?

それは、言語化出来ることには限りがあるからだ。人は言葉以上の存在である。そして、
人はそのような言外の表現をも、模倣できるし、知ることが出来る。つまり、リアルな
現実を通じて模倣する以外には、行動様式を真似ることをは限りなく難しいのである。

ここで一つの結論が出た。つまり、自分の行動を良いものにしたければ、良いと思う行動を
している集団に所属する他無いということだ。残念ながら、悪い集団に所属していながら、
良い行動をとるのは非常に困難である。むしろ、その集団は悪い行動を強要してくるだろう。
悪い行動を拒否すれば、集団から嫌悪されたり、無視されたりすることだろう。これが
よくあるいじめの元凶だ。

では、ここでの良い・悪いはどう決めたら良いのか。集団において行われる行動が果たして、
許容されるのか否か。個人が変な人で、集団にとって悪い行動をするならば、その行動は
矯正されることになる。だが、そのよしあしはどうすればいい?何が正常で何が異常なのか。
それはとどのつまり集団の性質と個人の経験に依拠する事になる。

個人の経験とはその人が育った家庭、近所付き合い、友人関係、職場環境などである。
一方で、集団の性質とはその集団におけるキーパーソンが生み出す空気感である。

企業が新卒を取りたがるのは、企業経験がない人には、どんなふうにでも仕込めるという
利点があるからだ。それがその人にとっての「社会常識」として形成される。もし一社にいて
定年までいるとしたら、その常識の正常・異常に気が付かないかもしれない。比較するものが
なければ全てを正常と受け入れる他無い。

同じことは、夫婦関係などにもいえる。処女などはまさにそうだ。比較するものがなければ、
家庭に入ったとしても、そういうものだと思うことが出来る。とはいえ、個人には経験がある。

個人の経験に大きく作用するのは結局、親だろう。親の思考パターンを知らずとトレースする。
これは避けて通れないが、そのパターンは果たしてその個人の希望に沿うものとは限らない。
だから、親子の確執が現れる。親は子どもに特定の行動様式を強要する。子どもの生来性と
その要求が噛み合わない時、子どもは我慢して受け入れることになる。この受入を拒否したとき、
初めて子どもは「自由」を表現する事になる。反抗期とはつまり自由の表現なのだ。

親の意向を強要する時、時に体罰やハラスメントが行われる。これも親が親に受けた行為である。
個人の経験が、自分の子どもに反映されるわけだ。こうして、子どもを社会化する。子どもの
社会化が上手く成功すると「社会的自我」を抱えた子どもが誕生するわけだ。それは本来の
自分ではない、他者の望む行動様式を持つ人となる。

さて話を戻そう。特定の行動様式を抱えた人は、社会の行動様式に出会う。その時、その
集団のやり方にフィットする場合は問題がない。だが、多かれ少なかれ、齟齬が生じる。
その齟齬を他者の方法を取り入れることで適応するわけだ。この時の齟齬に対する評価が
つまり、よしあしである。

子どもが多分に本来性をもつ大人に育ったとしたら、会社組織での価値観を正当に評価出来る
だろう。そして、そのよしあしの価値観によって、会社での振る舞いが変わることだろう。
もし、企業が行う常識的行動をおかしいと思ったら、このような自愛のある人は闘うだろう。
一方で、子どもが社会的自我を多分に身に着けているとしたら、そしてそのような外部からの
価値観の取り込みに優れているとしたら、企業での異常行動もすぐに取り入れ、そういうものだ
と受け入れることだろう。

集団におけるよしあしは、結局、個人の社会化の程度によって変化するのである。
常識という当たり前が一つ存在するわけではない。日本社会では常識でも、諸外国では
全く常識じゃないことなどざらにある。要するに、その常識とは、社会化された人々の頭に
埋め込まれた行動様式に過ぎないのだ。

結果として、よく社会化された個人が社会にとって有益となる。ではそのような人はどうすれば
見つかるか?それこそが、学歴である。学歴が高いという事は、社会化の程度が高いということだ。
それはいわば、諸刃の剣である。学習能力が高いというのは喜ばしいことだ。複雑なことが出来る
という蓋然性が高い。一方で、パズルゲームのような受験勉学にそんなにも注力出来るということは
ある意味で「バカ」であり、強く社会化されてしまった個人ともいえる。

こういう人々が権力をもつ社会とは、結局、社会的常識に懐疑することなく、内部ルールを
うまく運用できる人がはびこる社会となる。従順で、疑問をもたぬ人々である。もちろん、
それでもうまくいっているなら問題はないのかもしれない。

残念ながら、社会的な自我による行動ばかりする人は、幸福を得ることはない。
なぜなら、自分がやりたい事をしているわけではないという当たり前の事実に目をつぶっている
からだ。本当の自分を押しつぶして、社会的に素晴らしいという行為を繰り返す。その心は
きっと死ぬほどつらいだろう。その矛盾に気が付かずにやり過ごすことは出来るかもしれないが、
惨めではないのか。

一方で、社会化に反抗した人は、社会に受け入れられない。それがために、数々の不利益を
受けることになる。人から後ろ指を刺されるのかもしれない。そういう人々が工場労働などに
従事して日銭を稼ぐ。それはそれでプライドを維持できるだろうか?多数の他者からの視線は
容赦なく、彼らを襲うだろう。それは、差別と同じ種の排除圧力である。

現代社会日本では、不幸な人間しか生み出さない。本当の自分を大事にすると、生活に困りがち
であり、過剰に社会化すると喜びを失う人生となる。すると戦略は、ほどほどとなる。
適当に社会化し、適当に本当の自分を出す。そういう人々が増えるように社会の仕組みが
出来ているわけだ。

結果として、サラリーマンとして生きてゆくことに適当に適応し、魂までは売らないけれど、
それなりに社会人として振る舞い、趣味にそれなりに有意義な価値を見出し、そこで本当の
自分の気持を慰める。こういう人間であふれかえることになる。

全方向位に向って、中途半端になる。本気じゃないのだ。本気さを失った人々の群れ。
これが現代日本の描像だろう。

だが時代は流れる。もはやこういう状態ではいられない。日本は足元から瓦解している。
それに最後の抵抗を果たそうとして、アベノミクスなる政策が打たれている。経団連の
老害たちが、考えている事は国民を食い物にするというだけである。それなのに、個々人の
サラリーマンたちが、不満足を上司のせいにして、酒とタバコとコーヒーでストレス解消する。
誰かが商売で用意したレジャーに興じてストレス解消する。決して、仕事が社会を良くしている
のかなどとは、考えもしない。金が得られれば、何をしてもいいと考えるのだ。都合が悪ければ、
ごまかせばいい。隠せばいい。まあ、何バレても大したことはないさ。そういう思考に汚染
されてしまう。

だが、このような社会において反抗するのは限りなく虚しい。そのような試みはおそらく
そのように考えた時点で失敗を先見的に内包している。なぜなら、人々は強固に洗脳されて
しまったのだから。そう、ここに書いた事すべては始めから虚無に絡め取られている。

それでもなお、ここで訴えるのは、なぜか。私は信じているのだ。きっと、ここで書いた何かが
誰かを触発し、少しでも社会を良い方向へと導くことを。模倣が得意な人々であれば、また、
良き何かにも素早く模倣する事だろうと。

まずは、普通に生きていると思っているあなたに問う。その普通はあなたの本来性に沿っている
のかと。違うなと感じているのならば、それを誰かに話せないだろうか。その違いなという
感覚が死滅する前に、どうにか誰かに伝えられないだろうか。小さな事が、我々を良き未来へと
導いてくれると信じたい。

最後に、一つ。

都市部に住んで一年。自分の感覚が元に戻りつつ有ることを実感する。
周りが正しいと思って行動する事に、ずるずると引きずられる。相手があまりに当たり前に
信じている事に抵抗する必要はないが、かといって、自分の信念を捨てる必要はない。
だが、毎日どんどん、かつての思考が当たり前で、自分が考えていることが馬鹿げた事に
思えてくる。よしあしの尺度がずれてゆく。だから、ここに書き留めておく。後ほど、
読み直した時に、どれほどずれてしまったのかを知るためにも。
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仮想通貨の在り様ーその可能性ー [その他]

ビットコインやアルトコインなど、仮想通貨が現在流行している。
時に、ビットコインは1BTCが200万円に達しようとしている。

もともとは、コンピュータの中で定義された情報に過ぎない。
その情報にどんな価格を与えるかは、市場によって決まる。これが常識だ。
よって、仮想通貨は文字通り、仮想通貨であり、それ以上でもそれ以下でもない。

ナカモト・サトシというペンネームで書かれた論文が、
ビットコインのコアを説明している。ブロックチェーンと呼ばれる仕組みは、
分散型台帳システムにより、取引の総体を常に複数人、複数個所でチェック
しながら取引を記述し続ける点に特徴がある。

https://tech-camp.in/note/technology/28766/

ビットコインの主な特徴は、発行体がいない事、
紙幣貨幣など実物がない事、発行量に上限がある事、世界中で使える事、
価格変動は今のところ、大きい事などが挙げられる。

簡単に考えるならゲームの中のゴールドやグループ店舗で使われる
ポイントと大差ない。ただ、その情報の在り方が高度な数学を含み、
その改ざんを防ぐ技術の高さから、法定通貨の代替となる可能性を秘めている。

もしビットコインで給料をもらったとしても、クレジットカードのように
処理できるとしたら、多くの普通の人にとっては気にならないはずだ。
円と呼ばれないだけであろう。

法定通貨は、中央銀行による発行が行われている。
また実体を持つ。加えて発行量に上限がなく、価格変動はごくわずかだ。
使える場所は、主に国内のみである。

現状でこれらの大きな違いは、価格の変動性だろう。価格変動が大きいものは、
投機的な扱いを受ける。かつてのオランダのチューリップや、土地ころがしと
同じである。為替の変動はごくわずかだが、仮想通貨はとにかく変動が激しい。

そもそも、金とは何か。それは信用の事であった。信用ってなんだ?と
多くの人は思うだろう。それは要するに「将来の誰かの労働」の事である。
金が手元にあるということは、将来その金の額面分の労働を用いる権利と
いうことだ。5000万円あれば、それは家を建てるのに十分な労働を手に
している事となる。

しかしその裏付けは金が債権であるという点においてスタートしていた。
金とは債権である。誰かが借金しなければ、金は存在しえない。その意味で
仮想通貨は金のようで金ではない。また借金は人口が増えたらその額が増加
するものであるが、仮想通貨では上限がある。この辺りもリアルマネーとは
一線を画している。

仮想通貨がマネーになり得るか。現在のところ、金に代替するのは難しいだろう。
仮想通貨の増加の仕方は「信用創造」ではなく、マイニングによるものだからだ。
マイニングとは、ブロックを計算するための行為で、それを行うと報酬が
もらえる仕組みだ。よって、仮想通貨を手に入れる手段は、誰かがもつBTCを
リアルマネーによって手に入れるか、マイニングをしてその報酬として手に
入れるかとなる。リアルマネーは誰かが借金すればいい。これは大きな違いだ。

では仮想通貨が役立たないかと言えば、そんなことはないだろう。
改ざん不能性をもつことから取引の安全性などにおいて有効であるし、
世界中で使えることから、両替の不要さなどの利便性もある。

また、もっと重要な事は管理者不在という点である。中央銀行のような
存在によるものではない点をデメリットという人がいるが、それは大きな間違えだ。
金の信用とは実態にあるわけではない。大事な事なので繰り返すが、金の信用とは
国の保証などではない。それは人々の頭の中の強い幻想の事を指す。

つまり、目の前にひらひらさせている紙を金だといいはる人がいて、それを
みた人が、ああ金だと思えば、それで金となるのである。そこに国の存在性は
不要である。これが実態としての金だ。もちろん制度としての金は中央銀行に
よる発行という保証の元にある。だが、実体など使用者にとってはどうでもいい
事ではないか。

よって、信用を体現するものならば、金として有効に機能するはずなのだ。
ただし、先ほども述べた通り、現在の金の代替になるかといえば、ならない。
もう少し言えば、取引の決済手段としての仮想通貨はあり得るが、仮想通貨が
現代の金の機能全体を体現する事はあり得ないと言えるだろう。包含関係として
仮想通貨の方が機能性が小さいのである。

つまり「仮想通貨には信用創造がない」事が最大のネックである。

現在、取引が過熱しているが、その実態を比喩で考えてみよう。
例えば、芸術家の絵がある。芸術家が歳をとってゆくと、作品数が減り、
将来的には死んでしまうため、作品の制作が終わるとしよう。彼の絵は、
最終的に2100万点あるとしよう。

この時、絵を欲しいという人が現れるとする。はじめは物好きだけが絵を買った。
だが、次第に欲しいという人が増えてゆく。すると、どこかで相が転移して、
指数関数的に値段があがってゆく。あまりに作品点数が多いので、この作品の
やり取りをもって、金の代わりをする人が現れる。作品1つで、車一台と
交換するようなものだ。

多くの人がこの作品を欲しがっている時は、このような交換が成り立つ。
だが、みんなが欲しがらなくなると、価格は崩壊する事だろう。誰もが
欲しがる時のみ、金として機能するのである。

誰かが、作品を借金させてくれと言ってきたとする。現物がある人は
作品を返すための念書を書いて、貸してくれるかもしれない。だが、
利子をつけて返すにはどうしたらいいのだろう?作品の値上がりをもって、
作品で作品を買う??作品1つで、作品を2つ得る事が可能でなければ、
利子は得られないだろう。

これが仮想通貨ビットコインが金の代替にならない理由である。
有限な金のようなものは、リアルマネーの性質をイミテーション出来ないのだ。

もちろん、考え方をかえる事も出来る。リアルマネーの方が異常という
認識において、仮想通貨の性質をもって金とする方法である。

よく考えてみれば、なぜリアルマネーは利子がとれるのか。なぜ100円で
200円を買う事が可能なのか。ここのカネの矛盾がある。つまり信用創造
いや、債券創造があるのだ。

銀行は金を創る。本来は手元にない金を貸す能力を国から担保されている。
もしくは、その詐欺を見逃すように国と交渉しているともいえる。だから、
誰かが住宅ローンを組みたいとして、そこに返済の能力をみこめば、金を
貸すことになる。なぜなら、金を創ればいいのだから。これは公然と知られた
事実である。

もし私が、手元に何もなくても、誰かに100億円貸せるとしたら?
そんな馬鹿な!と誰しもがいうだろう。だが、銀行はそれをしている。
事実、それをしているのである。誰かが借金をすれば、その分金が増える。
だから、利子を払えるのである。これがリアルマネーの本質である。単に
決済出来ることが金の存在目的ではないのだ。

仮想通貨が、そのまま仮想なのは、この信用創造による金の膨張が存在しないからだ。
むろん、ビットコインを始めた人間はそんなこと百も承知だろう。
そして、現代のリアルマネーの特徴に異を唱えているのかもしれない。

さてさて、投機的な金がビットコインに流れている。まだまだその交換価値は
増加する事だろう。だが、仮想通貨が決済にだけ用いられるとしたら、
リアルマネーにとって代わられることはない。むしろ共存関係になることだろう。
大口の取引で、世界をまたぐときの決済などに積極的に使われるかもしれない。

逆に、ビットコインに使われているブロックチェーンの方式は、もっと
人々の生活に食い込むに違いない。私が可能性を感じているのは、地域通貨
としての仮想通貨である。シルビオ・ゲゼルの減価する貨幣としての利用である。

ブロックチェーンを地域通貨として利用する事で、自動的に減価出来る。
そして、発行数も管理できる。このようなブロックチェーンを用いた地域通貨
パッケージを市町村に提供できれば、かなり有効な景気刺激策になるだろう。

加えてもっといえば、個人通貨の可能性もある。誰かの労働をコインに変換し、
市場で交換するのだ。正確には逆で、個人の労働価値を個人の通貨で表すと
いうこと。例えば1鈴木が、パン一つ。でも、人によって労働価値が異なれば、
2田中がパン一つかもしれない。個人の信用をはかる手段としての通貨も
あり得る。この類似系はVALUというサービスとしてもう存在しており、
いずれ表舞台に現れるのかもしれない。

いずれにせよ、21世紀では通貨の概念は拡張してゆくことは間違えない。
その時、現在の仮想通貨がそのまま利用されているとは考えにくいだろう。
拡張された形に変形していると私は予測する。

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バーフバリとキリスト教 [思考・志向・試行]

大澤先生の講演を聞いた。その本題は「悲劇と喜劇」であった。

ここではこの講義内容を踏まえた上で、
悲劇としての「バーフバリ」を取り上げたい。

下記、ネタバレを含むので注意されたい。

バーフバリとは、今話題のボリウッド映画である。
「伝説誕生」「王の凱旋」の前後2作となっている。
内容は、親子3代にわたる伝説話という形式で、主には親である
バーフバリの悲劇伝説とバーフバリの子が行う王権回復のカタルシスの話だ。

おそらく多くの人は、「流石ボリウッド!!」という感じで
勧善懲悪の伝説物語として面白おかしく観たはずである。
全編にわたって、格闘が多いので、アクションに少々食傷するかもしれない。
だが、その部分を含めても、内容は劇的に演出され、色々と物理現象を
捻じ曲げた表現が満載な実に爽快なインド映画となっている。

CGを多用した過剰表現など、それはそれ、物語の中身は実に王道である。
その王道さをキリストの生誕の物語との類似として眺めたい。

悲劇である物語には、3つの要素が必要である。
これを述べたのはかのアリストテレスである。

1.苦難(不条理な出来事)
2.逆転(ポジティブからネガティブ)
3.認知(運命を知る)

これらを含むことで悲劇は構成される。そして悲劇であるほどに、
物語を聞いた我々には不可解な勇気がもたらされる。この誘発される勇気こそ
悲劇の効能であり、人々を魅了するものだ。

きっとバーフバリを観た人々は不可思議と勇気を得たはずである。
不条理な仕打ちに、徳と正義で立ち向かう主人公バーフバリ。その姿に
強く心動かされるはずだ。なぜなら、それが神話の構成であり、人の本姓に
訴えるからである。それは主人公が人間離れした能力を持つという事ではない。
その能力をどう使うかという点において、人の心をつかむのだ。

バーフバリはまさに、上記の3つの要素をがっちりと取り入れている。
そして、オイディプス王の悲劇とは異なり、王の復活というカタルシスで
終えるという形式によって、集客を狙った”あざとい”構成となっている。
(これは「君の名は」と同じチューニングである。)

バーフバリの苦難とは、母同然のシヴァガミ国母によって殺されるという
点で頂点に達する。そして異母兄弟の計略であることが明らかになる。
異母兄弟にとって、バーフの存在はまさに目の上のたんこぶであった。その
兄弟に向けられた憎しみによる計略が見事に、バーフバリを討ち果たす。
この悲劇が、悲劇であるのは、バーフバリの行動は母の教えから来るもので
あり、その教えに忠実であるがゆえに引き起こされる事だ。翻って、その
徳のある行動によって、バーフバリは王としての器として人々に慕われるのだ。

民衆とは、実は正義を体現するシンボルを求めている。それがめったに現れない
幻想であるのだが、それこそ、神話だからこそ、存在し得る存在としての英雄
を王としたいという心情があり、人はそのような人に傅きたいのである。
戦士カッパッタはそれをまさに体現した人である。

徳がゆえに味方に殺されてしまったバーフバリ。その回復を息子である
バーフバリが復讐を果たすというのが後半の見せ場である。個人的には、
最後の数分はかなりの蛇足だった気がするが、それこそがこの映画のヒットの
所以である。どこにも存在しない正義を体現する出来事だからだ。

逆転は、まさにバーフバリという祝福された王子が王になると定まった時から
スタートする。異母兄弟からの妬みによる計略に国母は巻き込まれてゆく。
まさに、ポジティブからネガティブへと物語は進んでゆく。クライマックスは、
何の謂れもないバーフバリがまさに国母の意思によって殺される事で完結する。

認知とは、二つの視点の交差点の事だ。神による運命と、それを知らずに行動する
主人公。子バーフバリは、自己を知らずに母を救い出す。そして、それを事後的に
知らされるのだ。自分が王家の血筋のものであること、その存在により母が救われる
と予感されていた事をまさに体現する。認知を経たバーフバリは復讐へと向かうのだ。

つまり、この物語はアリストテレスが定義した3つの条件を見事に
包含するのである。そして、その悲劇性こそが観た人々に健全な勇気を与える。
不思議であるが、徳のある主人公がいわれなき迫害を受けるという図式こそ、
人々は精神的な力を得る物語なのだ。だからこそ、バーフバリは健全な開放を
もたらす。それを現代の技術とインド映画のもつ演出で見せるのだ。ヒット
しないわけがない。

キリスト教の物語も、同様の型を持つ。まさに悲劇である。そして、その悲劇は
キリストの愛をまさに最大化した。悲劇がもたらす勇気はここにもある。

人がもつ不思議な心の理論。神経科学的なせこい心の理論ではない。
ここでいう心の理論とは、人は不合理に直面した時に、人に宿る不思議な力の
事である。人という動物には、悲劇を受容する装置が埋め込まれている。
このようなストーリーは、遺伝子や神経細胞の活動などで説明するものではない。
むしろ、人の精神のロジックとして語るべきなのだ。

悲劇の効能をぜひ堪能していただきたい。「バーフバリ」を観てない方は
映画館に急いで頂きたいのである。百聞は一見に如かずである。
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不安感の中で [思考・志向・試行]

一体何を求めていたのか。今、不安のただなかにいる。
もちろん、すぐに終わりが来るわけじゃない。だからこそ、大きな決断をした。
これで良かったのか。その不安は昨年も同様だった。結局、その不安感を半年も
引きずりながら生活してしまった。

結局、問題を先送りにし、目の前の仕事に逃避していた。
そしてどこか逃げたくなるような気分でいっぱいだった。現に何度も現実逃避に
出かけた。だが、気分が晴れるものではなかった。むしろ、なぜ自分が求めるものを
真に求めようとしないのか。自分でも分からなかった。

常に自分の在り様を求めて悩み続けた。だから休日でも、気が休まることなく、
考え続けた。周りからみたら、なんて無駄な事と思ったことだろう。どこか収まり
きらない気分が楽しみを奪っていった。友人と会う事も気が重かったのだ。

自分の気分の不安定さは、結局、自分が「自由に求めた」ものを実行していないから
だった。それは金銭的な過多とは無関係な事。でも、どこかしょうもないプライドが
疼いて、捨てられなかった。そして微妙に変化する関係性。人間とは不思議なもので
嫌だと思っていても、少しずつ馴染むものだ。半年以上経って、ようやく居場所の
ようなものが生まれてきた。そうか、人間関係は半年以上はかかるものなんだ。

もちろん、意識した。意識して言動を発してみた。今まで散々偉そうなことを
ここで述べてきた。ならば実行するほかない。自己愛ではなく、自愛を軸にした
健全なコミュニケーション。一人一人に対して可能な限りにおいて丁寧に接した。
きっと、何か伝わっているみたいだ。相手が変わることを期待して、そして自分が
変わることを期待して。

だが、一貫して違和感があった。その違和感がなんなのか。そうそれが遂に
理解できた。今日、発見したのだ。何をもって嫌だと思っているのかを。
それは、「条件付きの承認」の事だ。子供の頃、漠然と感じていたあの感じ。
それを繰り返そうとしていたのだ。いい子でなければいけない。人格の一部のみ
を評価し、そこだけ切り取って全人格性を決めつけてくる。それ以外の部分は
押し込められてしまう。そういうコミュニケーションだ。

親はそういう形で子供に明に暗にいい子でいることを強要する。好きな事を
して良いと言いながら、要求にかなう叶う形以外は認めないという命令。
暗黙裡に送られるメッセージだからこそ、たちが悪いのである。そして、それを
無視するわけにはいかないのである。そうだ、この関係性こそ、今の置かれている
状況をよく表している。

まさか、こんな関係性を仕事において利用されるとは思わなかった。
希望を述べよと言いながら、その反対方向で、彼の願いにかなうものを言う
しかないという矛盾するメッセージ。口と態度の間に乖離が見え隠れする。
それがマイルドであるから、一見するとまともに見える。だが、明示化されない
事は問題を水面下に押し込めてしまう。そして、徐々に腐ってゆくのだ。

自分がそのような関係性によって生きてきた事をうっかりしていた。そして、
そのような関係性にひっかかる心性を持つがゆえに、そういう相手を無意識に
選びとってしまう。そのような相手の命令に逆らえない。つまりハラスメント
関係である。そうか、所属した時から感じていた借りてきた猫のような人々の
雰囲気は、そういう関係性に共依存する人々の群れだったからだ。

だが、知ってしまったのだ。自分はそのようなシステムに生きられない。
なぜなら、悟ったのだから。人の在り様はそういう仕組みでは不健全にしか
機能しない。そんなチームが創造的であるはずがない。

それを身体反応として知っていた。そう、一年前に。なぜあそこまで身体が
拒否したのか。それを無理やり抑え込んだ。違う。これは違うというあの感覚。
きっとマリッジブルーなどと同じだろう。人は一時の事という。そして、
外から見れば、それは羨ましがられる状況であれ、非難される事はない。
だが、それに精神・身体が蝕まれる。

「努めて仕事に励め、そして成果をだせ」そういうもの以外は認めない。
これが命題である。これは結局「努めて勉強に励め、そして合格しろ」と
まるで相似形である。なんだ、そういう風に操られたに過ぎないじゃないか。
もちろん、その結果として対価の給料をもらう。社会的補償をもらう。
そして自分を騙す。まあ、そこそこ貰えてるのだからと。実は、自己嫌悪に
よって支配されているのだが、それは休日に散財で発散である。

きっと、高額な給料をもらえばもらうほど、その状況が上記のようなハラスメント
状態にあったとしても、動けなくなるのだろう。十分な対価を不快な気分と
交換し続ける他ない。だが、そんな人間のどこが魅力的だろうか?
日本の多くの企業には、努力して成果を出すという命題以外の行為を認めない
ハラッサーが沢山いるし、その洗礼を受けた人は、自分が仕掛ける側になって
しまうのだ。

努力不足を責める人間は気を付けた方がいい。いや、そもそも努力不足という
概念自体が成り立たないのだ。そんなものこの世にはない。人は生きるための
十分な能力を持ち、十分な活動を行っているはずなのだ。健全に生きていれば。
そこに努力という圧は必要ない。あらゆる動物たちは努力などしないのだ。
ではなぜ、努力があるのか。それはプライドなのだろう。他者より優れている
と思いたいという。そして、利益を確保する動機でもある。それが現代社会に
おけるルールだからだ。もちろん、努力しても報われるかは分からないし、
努力しなくても益を得る事がある。人生とはそういうものだ。つまり、日常の
充実こそが人生であって、目的の達成のために犠牲にする時間などないのだ。

この仕組みがわかった今、所属し続ける事に困難が生じた。だが、半年で
ようやく居場所が出来てきた。迷いが続いた。もうしばらく大丈夫なのでは
ないかと。逡巡した。ずっと。人はきっかけがないと決断できないものなのだ。
のんべんだらりとした時間の流れの中で、意思決定など出来るはずもない。

「やって後悔する事とやらずに後悔する事」どちらにしても、後悔するならば、
行動すべきではないか。これが今回の答えだ。きっと後悔するだろう。どこかで。
でも、行動したのだ。それだけは間違えない。もしこの決断が間違えなら、それを
後続に伝えなければならない。それによってこの失敗は成功を生み出すのだから。
私はそのような連鎖を信じる事にした。


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絶望的な日本の生活 [思考・志向・試行]

日本では、パターナリズムが跋扈し、その一方で、あらゆる責任逃れのための
努力が行われている。その本質は、決して社会を良くしようと考えての行動ではない。
むしろ、自分が如何に損しないかを勘案しての行動である。

万事が万事そんな風だから、責任のある行動がどんなものか分からなくなってしまった。
責任を取ると言って、大企業の役員や経営者が不正などによって辞任する。これは、
むしろ責任の放棄であって、責任をとっているわけではない。権力があるものは常に、
責任を負わなければならないのだが、この国では責任など取りようがないのである。

そうすると、人々は自分のところにしわ寄せが来ないようにと行動する。
それは雇われ経営者でも同じ事。自分の任期中に何もなく過ごせれば良いのだ。
すると、とにかく形を作りたがる。形式的であっても、何かアリバイがあればいい。
これが強いインセンティブとなり、業績づくりが行われることになる。数字を
いじったり、時にねつ造したり。要は微細な嘘をついて場を取り繕うわけだ。

こうして社会では、とにかく見かけにこだわる人々が増え続ける。
内実は置いといて、書類・プレゼン・広告とにかく見た目が良いものばかり
もてはやされる。そして本質的な問題は見て見ぬふりをする。なぜなら、それを
解決しようものならば、内部的には「面倒な事」をする人と思われるだけでなく、
恰も、その問題を作り出した人のように見られてしまうからだ。

これが会社だけでなく社会全体に反映され、一億層無責任時代が長く続いた。
その結果、あらゆる場面で不正があったのだが、それが見つからずに伝統化して
しまったのである。前任者の不正は、後任者にとっての通常になる。後者は
不幸にして、業務とはそういうものだと学んでしまうのだ。

昨今の不正ブームは要は、発覚である。今までやってきてた事をおかしいと
いう人間が増えたというわけだ。それはそれで正常なのだけど、次から次に
出てくる不正・虚偽。あまりにも不誠実であろう。

現政権のへたくそなやり方もまさに責任逃れで出来ている。嘘ばかりいう事が
バレバレであるが、それを否認し無かったかのように振る舞う。精神的に
異常なのであるが、それすら誰も指摘しない。なぜなら周りもおかしいから
なのだが、それも誰も指摘しない。なぜだ??

それこそが責任逃れシステムへの適応の結果である。指摘したら、自分の立場が
危ういとしたら、誰が指摘するものか。指摘しない上に、指摘出来ないのである。
それを続けている内に、何がおかしいのか分からなくなる。もはや末期なのだ。

この責任逃れシステムは、現代社会の一側面である。これは社会学的にみれば、
シェフ氏の指摘する「嗜癖システム」であろうし、安富氏が指摘する「立場主義」
であろう。社会が正義とみなす思想と、それに呼応する社会活動がある。現に
行われている社会活動は人を幸せにしない。むしろ、何かに没頭させることで、
全体を隠ぺいし、それに依存する事で精神の安定を保とうとする。倒錯した
システムなのだ。

会社での矛盾を孕む活動を無理やり肯定するために精神疲労を伴う会社員は、
そのストレスを精神的・身体的病気として表出する。そこまでいかないように、
酒・たばこ・カフェインがある。朝起きられないために、コーヒーを飲み、
昼間辛くなってきたら、タバコをやり、仕事が終わっても気分が晴れないから、
それを忘れるために酒を飲む。まさに労働者のお手本であろう。そこまでして、
何を体現しているのか?

金を稼いでいるだって?そのためのサービスを生み出しているだって?そうか?
あなたの書類は会社のためであって、顧客のためではない。あなたの労働の大半は
組織の運営のためではないか?それをビジネスだと声にだして言えるのか?

本来、経済活動とは人にとって必要なものを得るための行為である。それは、
生産者であり消費者であるということ。大抵の労働は誰かのためにある。
それがなぜか、組織のための仕事になり、組織維持のための行為に成り下がった。
この時、人は労働に意味を見出せなくなる。そしてそのような労働には責任など
とりたくないのだ。要は、やる価値もない仕事なのだが、そういうものに限って
高給取りなのである。

このような仕事をこなす男たちは要するに仕事に嗜癖しているのである。
仕事をしてさえいれば、免罪されるかのように。そうしてますます仕事にアディクト
するのだ。この仕事癖を社会では「良き社会人」と呼ぶのである。仕事中毒は、
社会が認める中毒なのである。

一方こういう旦那を持つ妻は、この旦那に対応して依存して生きる。それは
中毒者の世話人という事になる。本来、伴侶は中毒を是正しなければならない。
だが、この仕事への嗜癖は日本社会が許容するがために、異常とはみなされず、
むしろ、積極的に採用される思考状態となる。すると、伴侶は共犯者になる。
つまり共依存である。

アルコール依存者の家族は、一見被害者に見える。だが、その内実は、私がいない
とこの人はダメになるという無自覚的な依存があるのだ。つまり、家族がアルコール
依存者である事を望んでいるのだ。歪んでいるが自分の存在を肯定してくれるのが
中毒者の家族なのだ。

これを仕事と置き換えてみる。まるで、日本の良き家庭に見えてこないか。
仕事に勤しむ旦那と、それを生活面からサポートする妻の図式は、アルコール依存
者のいる家族と極めて類似する。つまり、日本社会において良き家庭とは、
仕事中毒者の保存に努めている事と同義なのである。これは社会全体がそのような
エートスに包まれている事を意味する。ならば、もう日本全体が中毒患者となる。
終わったな日本。そう考えるのが普通だろう。

ではなぜ、仕事への嗜癖が収まらないか。それは「立場主義」だからだ。
立場主義とは、現代日本では何らかのポジションを得る必要がある事を意味する。
正社員という立場、資本家という立場、学校での立場、専業主婦という立場、
とにかくなんらかの社会的に肯定された立場に身を置くことが求められている。

このような状況下で、立場から外れると大抵痛い生活が待っている。
それがために、立場を失わないようにと行動する事になる。そして良い立場を
得ようとする。だから受験戦争があるし、大企業へ勤めようとする。それは
良い立場=幸せという信念が流布されているからだ。その背後に拝金主義が
あるのは間違えない。金を多く得るほど、幸せなのだと思っているのだ。

そして、立場を守るためなら、何でもする。それが仕事への嗜癖につながるのだ。
加えて、責任逃れシステムを構築するのである。

このような嗜癖まみれの人々で構成された社会が果たしてうまくいくのか?
否。遅かれ早かれダメになるに決まっているだろう。ならば、我々は先回り
して、立場主義から脱却し、仕事への嗜癖もやめ、共依存的家庭を再構築
しなければならないのだ。

そのための第一歩は、ひとまず自覚する事だろう。
自分の行動は一体何のためかと。


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Yahooニュースの危険性 [雑学]

正直な所、ヤフーニュースに危険を感じている。
純粋にまずは、ニュースに娯楽が多すぎる。
http://beinspiredglobal.com/japanese-yahoo

本当なのかは分からないが実感として、確かにエンタメが多い。
いや多すぎるだろう。はっきりいってどうでも良い内容である。

次に、多くの人がニュースをヤフーから摂取している事だ。

これは由々しき事態である。なぜなら、内容がいい加減だからだ。
https://teisei.info/archives/949

この二つによって恐ろしい事が起こっている事がわかる。
ニュースの信憑性が薄い内容にもかかわらず、多くの人がその内容を共有する
事で、内容に信憑性が加わってしまうという事だ。

中身が間違っていても自分が知っている知識が、他者によって裏打ちされると
みんなそれが最もだと認識してしまうのである。

これによって、多くの問題が発生する。一見、ただの一社によるニュースの
取捨選択が、世論形成に大きく影響を与えているといえるからだ。そして、
往々にして、そのニュースには異常性がある。

とりわけ、危険と思うのは、批判性のない記事である。名指しするならば、
産経新聞や読売新聞は危ない。この危険性とは、人々を争いに誘うことを
主としている内容を指す。

北朝鮮や韓国、中国などの記事をこれらの新聞社の報道で見るとき、
内容は常に敵対的である。これが意味するところは何か?人を争いに誘導する
事であろう。少なくとも、敵を形成する事に役立つ。

人は普通に暮らしている限りにおいて、わざわざ敵を生み出さなくてもいい。
通常、直接的な害があるとき、人はそれを敵とみなす。これは生物にとっての
基本的な概念だ。よく犬とタヌキは天敵であるといわれるが、これも事後的な
関わり合いの中で、争いを生じるがゆえに敵となる。多くの哺乳類は「事後的」
に敵を生み出す。野良犬は人から危害を加えられてせいで、人を敵とみなす
のである。

だが、ヒトには言葉があり、想像力がある。誰かが誰かを敵と名指しする時、
とりわけ、「味方」が誰かを敵と名指しするとき、その対象を一緒に敵と
認定してしまう。これは個人レベルでも、集団レベルでも同じ事だ。個人レベル
であれば、いじめとなり、集団レベルなら、敵国の形成となる。

勿論、このような認識が生物としての生存戦略であったが、現代では時に
不要な争いを生み出すきっかけに成り得る。

あなたは産経新聞がのたまう北朝鮮の脅威を真に受けている事だろう。
その内実をあなたはどこまで知っているのか?あの報道が何を意味するのか
真剣に考えたことはあるだろうか?誰かが誰かを敵と名指しする時、我々は
一番注意する必要がある。

あなたは北朝鮮や中国に行ったことはあるか?彼らの誰かと直接かかわった事
はあるだろうか?ないならば、なぜ彼らを敵と見なせるのか?あるならば、
どんな理由で敵と考えるのか?実直にいえば、直接的な理由もなしに、敵と
みなせるあなた方の方が、よっぽど脅威であり、私の敵である。危険思想を持つ
人々である。

もう少し言わせてもらう。ナチスドイツでは、ユダヤ人は迫害対象であった。
では、果たしてすべてのドイツ人がユダヤ人から害を受けていただろうか?
否。小さな個別的な対立はあっただろう。だが、そんな関係性はどんな所にも
存在する。では、なぜドイツ人の特に暴力集団において、ユダヤ迫害が肯定
されたのだろうか?それは誰かが誰かを敵と名指ししたという事に過ぎない。

ナチス党がユダヤを敵と見なしただけに過ぎない。だが、それが公然と当たり前
として流布した。おそらく常識的にこんな事を真剣に受け止めたのは、全体から
言えば、少数の人々であったろう。だが、暴力を背景とした思想性は、抗う事に
躊躇する。抗う事が非常に困難である。いやほとんど不可能と言えるだろう。
それが歴史が教える事実である。つまり、あなたがユダヤ迫害をする人である。
断定してしよう、あなたは他人にそそのかされることで、いとも簡単にユダヤ
迫害を実行する事だろう。これが、誰かが誰かを名指しする事の怖さである。

翻って、今の日本はどうか?あなたは北朝鮮に脅威を感じているだろうか。
その理由は何か?現実に何か起こったのか?何もない。現時点では、何もない。
では、なぜあなたは彼らを脅威とみなすのか。ミサイルを撃ってきているから
だと?あなたは言いたいだろう。では、そのミサイルを撃っているのは誰だ?

それは政権の意図であり、ごく一部の人間の所業であろう。つまりせいぜい
数千人の行動である。彼らの所業を持って、北朝鮮という名に敵とラベル
するのは異常ではないか。

我々にも同じことが言える。安倍晋三を掲げた現政権の行動そのものを他国は
”日本”と見なす。現政権が行った行為は、日本の行為として映る。核兵器禁止
条約を批准しない日本は、世界に対してアメリカ属国をアピールした。つまり、
アメリカの功罪を批判する気がないという事である。そして、集団的自衛権の
行使といいながら、他国への先制攻撃を可能としようとする行為。これも、
諸国から見れば、好戦的にみえるだろう。彼らは、我々を名指しして、敵と
呼ぶかもしれない。これのどこが不思議だろうか?

大抵の人々は、ごく平和な人々である。その人々が争いを求めるのはなぜか。
ほとんど理解不能に思われる。少なくとも理性的な観点からいえば、北朝鮮
だからといって、憎悪を募らせるのは、意味不明である。憎むべきは好戦的で
秩序を壊そうとしている人々であって、国やその国民ではない。つまり争いを
仕掛けようというごく一部の人間を非難するべきであって、その全体ではない。

こんな当たり前を誰も理解しない。申し訳ないが、誰も理解しないと断言できる。
少なくとも私の周りの人間は、こんな簡単な事を理解できなかった。それほどに
誰かが誰かを名指しする事の恐ろしさがある。人は簡単に「騙される」のである。

今、ユダヤ迫害にあなたは与しますか?と問うたら、何を馬鹿な事をというだろう。
では、今、北朝鮮への敵対心にあなたは与しますか?と問うたら、なぜ、馬鹿な
事をと言わないのか?まるで同じ事ではないか。

個人的に北朝鮮や中国の人と話をすれば、そこに敵意があるはずもない。
集団になると、常に敵意をまとう。我々、人類は愚昧にも、それが理解できない。
理解できるほど頭が良くない。それが歴史が教える事実である。常に、争いを
求める人間たちがいて、残りの大衆は彼らの意向に簡単に欺かれる。これは
どれほど強調しても、足りないくらいだ。いいですか、あなたが欺かれるんですよ。
そして、現にすでに、現在進行形で欺かれているわけです。Jアラートで頭を
抱えたあなたははっきりいって「いかれてますよ」。

平和とは、努力であって、無為ではない。こんなことも理解できないのが日本人
である。争いを最小限にとどめようというのが知恵であって、争いを煽る言動
は全て、異常な言動と言えるだろう。繰り返します。争いを煽る言動はすべからく
異常であると。

分かって貰えない事は百も承知である。だからこそ、ここに記すのである。
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