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アベノミクスによろしくー日本経済崩壊中ー [思考・志向・試行]

今まで、散々安倍政権の経済政策を取り上げてきたけれど、
明石氏著の「アベノミクスによろしく」は総まとめとして非常にまとまっていた。

要点はアベノミクスなる経済政策は何も事態を好転させていないという事だ。
GDPの算出法の改変や、それにともなうかさ上げと、過去のデータの改ざん、
こういった事で見かけを整えたのが報道されている事であり、実体を反映していない。
更に、年金の株への投資やETFなどの株式への資金流入は「官製相場」を招き、
実体を不透明させている。加えて、労働者をさらにこき使う政策へと足を踏み入れようと
しているわけで、こういった動きで、一番利を得ているのはもっぱら経団連の経営者
たちだろう。

それなのになぜか労働者である人々が現政権を支持してしまう。
なぜか?要因を考えてみたい。

1.有権者は事実を知らない

2.自分の立場を理解していない

3.自分で考えない

大まかにこんなことなのだろう。
要するに視野が狭く、言われたままに過ごしているのだろう。なぜ労働分配率が
日本は低いのか。なぜ多くの税金を取られているのに我慢するのか。歴史をみれば、
国民にはそれに対する抵抗力をもっているはずだ。だが、自分の生活を守る事が
重大な事として立ちふさがる。そのためには巻かれている方が良いと考えてしまう。

長いものに巻かれている時は実は安心できる。なぜか?みんながそうしているから
だ。だが、みんなが間違えていたらどうするのか?恐らく現状ではみんな間違えて
いる。いや完全に間違えている。だが、そのように思考する事はない。もはや
洗脳を終えてしまっているからだ。そして、その洗脳を超えられる人はほとんど
いないのだ。

既得権益を得たものは、現状維持を望む。彼らは社会的なエリートが多い。
他人を蹴落として、学歴を得て、企業体において立場を確保した人間たちは、
経営者的立場に自分を投影している事だろう。そして自分が万一にも、泥船に
乗っているとは考えないのだろう。いや、彼らは賢い。ときおり、ちらっとは
頭によぎるのだ。このままでは日本は終わると。だが、自分たちを守るために、
ひとまず現状維持を考える事になる。

結局、自分の頭で考える事はしない。それこそが怠慢なのだ。自分の行動が
すべからく、他者の願望に沿って働いているとは全く意識出来ないのだ。
大量の宣伝、大量の広告、社会の洗脳によって、我々は本来性を失っている。
もちろん、それでいい。既得権益からいえば、それでいいのだ。みんながそう
やって生きる事で、自分たちの利益は益々増えるのだから。

現在の安倍政権はおおよそアメリカの傀儡政権と呼べるものだろう。
アメリカの特に軍事系列の意図に巻き込まれている。結果として、日本がアメリカの
属国であることを再度意識する事になる。そのような事態を目の前にしても、
日本国民はいまだに、自分たちは一国の独立国かのような顔をして生きているわけだ。

アベノミクスが行った政策、とりわけ金融政策は今後に大きな問題を残す。
日本は沈没する。問題はどの程度の沈没で済むのかという事であって、もはや
この事は避けられない段階に来た。ましてやその滅びの道を推し進めて問題を
先送りしようという人々が多すぎるのだ。あなた方がせっせと働いて稼いだ金が
一夜にして、紙くずになるかもしれないのにだ。

自分たちを守ろうと、目の前の労働に明け暮れるほど、自分たちの生活をおかしく
する。社会のシステムは個人の努力など簡単に無にするだろう。それをもう少し
真剣に考えた方がいい。いや、本当に考えないとだめなのだ。

ともかくも、「アベノミクスによろしく」これを読んでから安倍政権を支持するか
考えてほしい。その程度の知識なしに、現政権を支持しているのなら、あなたは
間抜けだとしか言いようがない。そして、読んだ上でなお、支持するなら、マゾか
愚昧なのだろう。

手遅れならば、手遅れなりの手段を講じなければならない。誰でもいい、
この記事を読んだ勇気あるものは、生活を真剣に考えてほしい。こう書いて、
通じるのは100人中、数人に過ぎない事は十分に承知の上でいう。社会を、
金儲けの手段の場にしないでいただきたいのだ。それは人生の一部に過ぎない
のだから。
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引き返せない事 [思考・志向・試行]

我々は引き返せない。たとえ、理性で理解していてもだ。

人は問題が生じたときでも、誰も引き返そうとしない。
それは苦痛なのだ。非常な苦痛である。

例えば、戦争。世界情勢上、日本がアメリカに戦争を仕掛けざるを得なかった
のかもしれない。だが、冷静に考えれば、無駄に命を失う事はない。
出来もしない事を出来るとし、出来ることは撤退だったのに、それを実行
することは、自己否定につながるために実行されることはなかった。
末期には、誰しもが負けると分かっていた。ならば、一番被害が少ない形で
終わりにするべきであったろう。だが、人にとってそのような決断は苦痛で
しかない。

一度、物事が動き出すと、正しさよりも損得が重要となる。なぜなら、それで
生活を始める者がいるからだ。すると、止める事が困難になる。将来的にもっと
引き返せない状況になると分かっても、現状がなんとかなっているなら、
その水準を落としてまで状況に対応しようとは考えない。たとえ、その後に
崖から落ちるとしてもだ。

サンクコストとはよく言ったものだ。コンコルドファラシーでも良い。
物事を進めてしまうと、引き返せない。かけた時間と金の分を取り返そうと、
さらなる活動を続けてしまう。その先に破産が見えても。人はそのようなものを
見ないフリが得意だからである。

だが、状況はそれを許さない場合がある。始めてしまった物事が状況にそぐわなく
なり、変更を必要としているとして、速やかに変更できる事は殆どない。だが、
状況が異なれば、始めてしまったことでもやめる必要があるだろう。むしろ、
止めなければ、ますますひどい状況になってしまう事もある。その時、変更する
という決断をすることは限りなく困難である。

組織であれば、一部の人はこのままではいけないと気が付く。
だが、それを口にすると、「何言ってんだ、そんなこと言ったら士気が下がる」
とか、「すぐにはどうこうならないのだから、ひとまず大丈夫だろ」などと
言われる。つまり問題視されないのである。とりわけ現場においてこれでいいのか
と思われることは、結局、知りたくない情報として扱われ、問題放置がなされる。

それでも何とかなる場合もある。だが、時に、まさにそれが大問題を引き起こす
原因となる。多くの場合、この失敗は組織の失敗である。現場において発見される
問題点は可能な限り小さなうちに対処するべきなのだ。たとえそれで損をしようとも。
なぜなら、それを放置する事で受ける損害は限りなく大きく取り返しがつかない
事が多いからだ。例えば原発事故。原発がなんらかの形で制御できなくなれば、
放射能拡散という悲劇を招く。ならば、制御するシステムを構築する他ないが、
その制御が崩れ去った時、引き起こされる大惨事をみて、そのリスクが許容される
のかを考える必要がある。そして、フクシマ後の今、もはや原発維持に大義はない。
だが、推進中の人間たちは決してやめようとはしない。そんな勇気はないからだ。

日産の検査問題や、神戸製鋼の問題、東芝の粉飾決済問題、大きな組織は現場の
問題を軽視してしまう。正確にいえば、現場における問題は、直属の上司のミス
になる。それを更に上司が評価するならば、問題点は隠ぺいされる。つまり、
そもそも、問題点を明らかにするというインセンティブ、内的動機付けは決して
なされない。ましてや、業績を悪化させるような事実確認など共有されることは
あり得ない。だが、それこそが、組織をダメにする。

人体で考えよう。もし手に棘が刺さったら、痛いと感じるはずだ。それは間違え
ない。ものすごく小さくても棘は痛さを引き起こす。そして人体はそれを確実に
中枢に伝える。それは問題が拡大する可能性がある現象だからだ。化膿したり
毒素が入ったりと、様々な可能性がある。それは気づくべき現象である。だから
こそ、一瞬にして痛みが走り、対処を促す。そうして人体が守られる。痛いと
身体が感じたという事は、その対処を必要としている事と同義なのだ。

だが、組織における現場の痛みは中枢に届かない。そのような伝達経路を完全に
断っている。そうしてある日気が付いたら、片腕を切らなければならないほど
壊死しているのだ。そのあとでなぜだ?と叫ぶ。簡単である。現場の失敗や問題
を、その上司の責任するという愚昧な制度を利用するからである。現場の失敗は
中枢の失敗である。その報告を速やかに出来ない組織は、いずれ大問題を引き起こす。

人体は、炎症が起こった一部も自己である。だからこそ、全体を守るためシグナルを
中枢に送る。組織の現場が昨今、派遣やパートやバイトになっているのは当然の事。
これらの人々は問題があった時、組織の問題として捉えないだろう。なぜなら、
そんな役割を求められていないからだ。だから、昨今の組織は現状把握のセンサーを
断ち切っているようなものだ。アホノミクスが推進する非正規雇用化はこれに拍車を
かける。そして組織はせっかくの問題把握と対策機会を失うのである。

話を戻そう。人は始めたことをやめられない。やめる事を良しとしない。
だからいつまでも、どこまでも、決定的に崩壊するまで続けてしまう。
まさに、日本中のあらゆる問題はここからくる。問題点が明らかでも、それで
生活をするとなると、正義や長期的利益よりも、近視眼的な利益を追い求める。
結果、問題を放置し、なすすべがなくなるのだ。

以前にも書いた。アホノミクスによって株価があがったり、雇用の改善があったり、
金持ち優遇になったり、いささかの良い点に目がくらんで、なぜそれが出来ている
かにまるで気が付かない愚昧な大衆。今回の選挙も自民がそれなりに議席を確保
するのだろう。そして、日本という泥船は進んでゆく。すでに膨大な借金を国は
抱えてしまった。ギリシャやイタリアの比ではない。事実上、もう返せないくらい
だ。いやいや景気も6年前に比べればいいじゃないか?現状がよくなっている?
バカな!!

厳密ではないが、家庭における比喩ならば、月50万円の収入なのに、90万で
暮らす家のようなものだ。40万円の借金は国債という借財で賄う。それがもう
当たり前になってしまった。この数年間で国は金を作りまくった。つまり円の価値は
ぐっと下がったのだ。あとは、どこかで円安が止まらなくなり、インフレが始まり
制御不能になるかである。国はインフレにして借金を棒引きにするつもりかも
しれない。だが、庶民はインフレで財産を失う事になる。銀行に金はある?
まさか、もし財政が立ち行かなくなれば、預金のアクセスは断たれるのだ。ギリシャ
をみればいい。銀行にいっても金を下ろせないのである。そういう時がいつ日本に
来るのか。

それは、今の政権のやっている出鱈目な金融政策のせいだとここに記す。
いいだろうか、再度いう。日本にハイパーインフレや財政破たんがある
ならば、それは安倍晋三が行ったアベノミクスなるリフレ派による国家転覆事件
であると明記しておく。決して、先の民主党政権のせいでもなければ、その後に
現れる新政権のせいでもない。橋本ー小泉ー安倍と続いた自民党が行った一連の
日本改造が破たんをもたらしたとなる事を予言しておく。

そして、そういう人々を支持し続けた高齢者、団塊世代の責任であると。
目先しか考えず、自分たちが良ければそれでいいと考えたのはまさに今の大人
たちである。年金にしても、消費税にしても、すべて彼らにとって有利なもの
になっている。現代の若者は搾取されるのみだ。世代間論争は不毛だが、仕方ない。
今後は益々問題となる高齢者問題。これもまた目をつぶって見ないフリをする問題
の一つだ。それは年金問題ともつながる。事実上破綻している年金制度。これも
また大問題を引き起こすだろう。

つまり日本の政策全体がもはや頭打ちになっていて、問題は解決されないで放置
され続けているのである。そうして見ないフリをして自分たちが死ぬまで持てば
良いと無責任を貫く。そんな輩たちがのさばっているのが現代日本である。そして
そんな連中を支持する愚昧な老人たち。そして若者たち。

止める事、引き返すこと。いつでもできたはずだ。自分たちが損をしても、
長期的には有益であると判断できれば。だが、自分の損を毛嫌いするために、
問題を先送りにし、破たんしてから、犯人探しをする。この国はまるで変わらない。
今度も結局そうなるだろう。勿論犯人は、リフレ派の連中であり、それを支持した
愚昧な国民である。

いつでも引き返せる。そのために損を引き受ける覚悟が必要であり、勇気が必要だ。
現状維持のため、今日も借金を続ける政府。それを破綻覚悟で続けさせる経団連。
そうやって自分たちの生活を守ろうとする大企業の人々。そのおこぼれにあずかる
中小企業の人たち。これは誰のせいでもない。あなた方の問題なのである。

引き返す勇気をもつ。それがこれからの希望なのだ。どんなに生活が貧しくとも
前向きに生きられると証明する。そういう気概を大切にしたい。


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もがく事ー中年の危機ー [思考・志向・試行]

どうやら、中年の危機というべきものにぶつかっている。
自分の存在性について思い悩む日々であり、行動の変革を迫られている。
だが、どう変革すべきなのか、何を実行すべきなのか、自分では明確に出来ない。
その心のもやもやをただひたすらに抱えて行動しているのだ。

仕事や恋愛についておぼろげに全体が見えたとき、それまでの行為には、
「自分」がまるでいなかったことに気が付き愕然とした。そこにいたのは、
他者からの期待に応える自己であり、自己像であり、それ以外の何物でも
なかった。それは意識的でもあり、無意識的な行動様式である。

我々は生れ落ちてから、ひたすらに周りをまねて育つ。その意味で、社会人と
してとりあえず真っ当な生活を送れているならば、その人は十分にうまく他者を
模倣できたといえることだろう。だが、それは「自分」ではないのだ。そういう
感覚が自分に芽生えたのである。

現実は確かに存在する。だが、現実ではない所に自分が恰もいるかのようである。
そうして周りの人々があまりの現実にはまり込んでいる様をみると、自分は
フワフワと事態に流されているただの男に見えてくる。そうして彼らをいささか
羨ましくも思ったりする。なぜ自分は自分の行為にこれほど懐疑的になったのだろう?

これまで、暇をみては遠出を繰り返してきた。その内に不思議な感覚をつかむように
なった。それは自分の行為が他者の望む所に依りそう形で実現されているという事。
旅では、自分はある意味で幽霊のような存在になる。生活というものから疑似的に
抜け出し、何物でもない存在になる。この時にこそ、自己を外から見ることになる。
そうして自分を眺めたときに、「ああ、自分は自分の人生を生きていない」と自覚
したのだった。

それなりの努力をして、自己を社会化し、技能を身に着け、金を得る手段を得た。
だが、そこに自己から発生した自由が存在しない。そう我々には自由に生きる事
が可能な時間があるはずなのに。

多くの日本人はー一説には8割は給与を貰う立場ー他人の欲求にこたえる事で
生活を成り立たせている。すべてのサラリーマンは、他者の命令に従っている。
経営者であっても、取引先などの関係性など、他者の存在で規定される。金とは
要するに他者からもらう以外に稼ぐ方法がないからだ。つまり金が必要な人々は
すべからく、本質的な自由を奪われている。

とはいえ、このことが悪と言いたいわけではない。金によって人々がつながり、
生活を豊かにしているのもまた事実であろう。だが金を生活の必需品とする限りに
おいて、人々は「他者の奴隷」になる。金に依存する限りにおいて生殺与奪を他者に
委ねるほかないのである。この事実を指摘したい。

本来生きるためには、食物を手に入れる事が必要だ。食物を手に入れる手段は
現状の日本では二つしかない。土地を手に入れて自分で作るか、誰かからもらう
乃至は買うかである。勝手に森から食料を手に入れるわけにはいかないし、勝手に
スーパーから万引きするわけにはいかない。

一般には、農家や漁業などの一次産業における食部門において生活をしていなければ
自動的に人々は金という存在に依拠して生きる事になる。それは自己の存在を他者に
規定されるという意味であり、それが極端に概念化されることで、人々を一種の
精神病的状態に追い込む。世間とは、金に依拠して生きる者の総体であり、思想
である。この世間に逆らうのは、生死をかけた一大事になってしまうのだ。

だからこそ、人々は自己の欲望と世間との間に折り合いをつけようと試みる。
これがいわゆる「大人になる」という奴だ。この作業は一端になるまで続くし、
そうなる事を世間は求める。

だが、ここに落とし穴がある。中年になると危機を迎えるのだ。それは、抑うつ的
症状として現れ、仕事にやる気を失ったり、引きこもりがちになる。理由の一つは
まさに、自己の在り様が他者に依存しているという自覚である。多くの人は自分の
人生を歩いているようで、実は他者の人生を歩かされている。それを十全に自覚する
人は少ないのかもしれない。だが多かれ少なかれ、自己の在り様を疑う時は来る。

人によっては、転職や離婚といった形で解決を模索し、人によっては沈んだ状況から
いつの間にか復活するという軽いものもある。でも、大いに考えつくす必要がある
のは、本来的な自由であり、自己の人生である。この問題は人生において避けて
通れない。

コナトゥスとはスピノザが提唱した「生きる衝動」のことであるが、我々は
全て受動的に生まれてきた。宗教観によっては自己の責任において生まれるらしいが
一先ずここでは、受動的な生を想定したい。この衝動をこの世において体現する
ように我々は出来上がっているが、その方法論は本来自由であった。

だが、自由ではいられない。社会化した人間にとって、人生は自己によって意味を
与える事が義務付けられてしまった。つまり与えられた命の存在理由を、自己の
全人生をもってして意味付けよということだ。そんなものにどうして我々は立ち向
かう必要があるのか?こんな理不尽な仕打ちはないではないか。だが、人々は
そんな理不尽さを日々の暮らしの中に溶け込ませ、見ないふりをして生き抜こうと
あがく。

だが、その日々の暮らしが問題なのだ。あなたが依って立つその日々の生活こそ、
不自由の極致である。なぜあなたはその仕事をしているのか。なぜ、あなたは
毎日、不愉快な思いをしに会社へ向かうのか。日々の暮らしは、何も答えず、
ただ漫然とそこに参加させられるのである。それは決して自己の意思ではない。
それは他者がおりなす偶然的に生み出された意思の反映であり、我々はそれに
応えて行動する有機体に過ぎない。

ところが気が付いてしまった。少なくとも私には強い自覚がある。日々はまやかし
であり、自分の行為ではないのだと。考えてみれば、ほとんどの行為は自分の
行為ではない。真似なのだ。とりわけ、金を得る方法こそが、真似の極致である。
なぜなら、金の受け渡しには、ルールがあり、そのルールの総体は世間なのだ。
カネが生活を規定するならば、我々は世間に規定される。ここに埋め込まれた
存在であると気が付いた時、中年の危機は訪れる。

自分の行為を再度、受け入れる事。他者の人生を生きているという自覚。では、
どうしろというのか。現実問題として金を得るには、社会化した行動以外に
手段がないではないか。金を得なくてどうやって生を担保するのか。

金から逃げたい。そうか、そういう手もある。どこかで自給自足する生活だ。
土地を得て、そこで田畑を耕して暮らす。なんだ、かつての日本人である。
年貢を納めるという点においては、現代と変わらないが、もし年貢を納めなくても
いいのであれば、それは一つの選択肢になる。税金とは何か。それを知らなくては
いけない。

いやいや、何も今までの生活を捨てる事はない。金からの影響を小さくして
生きる手段もあるのではないか?そういう思想性であれば、模索可能だろうか?
半農半Xとは聞こえがいいが、リアルな生活スタイルになり得るだろうか。
その模索は続けている。

別に今までの生活をそのまま続ければいいのではないか?そうも思う。
他者の人生を生きる事も別に悪ではない。自由はないが、そこには生活がある。
生活と引き換えに、社会的自我を生きればいい。いや、無理だ。自由を自覚した
自分には、社会的自我をそのまま生きる事は、自分への嘘ではないか。他者の
人生に戻れるなら、それもまた一つの人生であり、ペルソナであっても、世間が
褒めてくれる人生ならば、まだマシではないのか。

残念ながら、かつての自己には戻れない。ズレを生じた事、そしてあの日訪れた
強い自覚。それは紛れもない事実であり、自分の中に生じたもの。これと世間と
をどう折り合いをつけるのか。未だに不明である。

ただ一つ。他者の人生を送るのはまっぴらごめんだ。
現在いえるのは、ここまでである。
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「はじまりへの旅」を観て [雑学]

はじまりへの旅という映画を観た。
傑作である。ぜひとも多くの人に見てもらいたい。
だが、その一方で、多くの意見の相違も生まれる事だろう。

この少々マニアックな映画の主題は「反資本主義」であるが、
それは一つの見方に過ぎない。この映画の本質的な主題は「常識を疑え」である。

以下、ネタバレも含めて話をする。よって、観たい方は他に移っていただきたい。





さて、映画のあらすじは、森で暮らす家族7人の話である。
父親と6人の子供たち。それと街で入院している母親がいる。

森の中で、父親はサバイバル術を子供たちに叩き込み、体を鍛える。
その野生的生活の一方で、現代社会の欺瞞について本を通じて教え込み、
一通りの学術的知識を授けている。単なる野生家族ではない。そして、
もっとも重要なのは、父親の教育方針は自分で考えさせるという事であり、
そのためには、オブラートに包んだ嘘は教えないという態度で臨む。
60代ヒッピー文化や、左派的思想に軸足を置き、現代社会の在り様を否定する
思想である。

物語は母親の自殺というショッキングな出来事からスタートする。
母親は仏教を信仰するが、街の母親の両親はキリスト教信者であり、その方針で
葬儀をあげようとする。父親は義理の家族、おもに義理の父から疎まれており、
葬儀にも来るなと忠告される。

だが、子供たちの意思を汲んだ父親は、母親の意思(遺書)を貫くため、
葬儀へとバスにのって向かうのであった。

以上が前半部分であり、ここではこの程度にしておこう。
要するに、現代社会を否定する父親と母親は、家族と森の中で過ごすことを
選び、そのために子供たちを自分たちで教育していた。子供たちは世間を知らず、
学校を知らずに育ってゆく。

その一方で、母親の葬儀に向かう中で、外界と接触し、子供たちは価値感のずれに
驚く。このギャップの演出が映画のコメディ部分なのだが、これ映画の本質である。

この映画の感想は、思想的な踏み絵になる事だろう。
どんな感想を持つかで、自分の思想が露になる。そういう映画なのだ。

この映画を観た一般的な感想は、父親や母親の過激な教育のために、
子供たちが社会性を失ってしまい、それを強要する親に不快感や嫌悪感を
表す一方で、子供たちがその方針に反抗する事をみて、社会性が大事なのだと
改めて思うという感想だろう。そして、それを父親が反省し、社会と折り合いを
つけてゆく父親と子供の成長物語なのだと。

違う。全く違うのだ。こんな陳腐な感想が出てくる映画ではない。そういう
風にしか見えないのは、如何にこの現代に思考が汚染されているかを示している。
父親のパターナリズムに反抗するとか、反資本主義的生活(労働者でなく、
消費者でもない)を送る人間の葛藤とか、そういう事は些末なことである。

ましてや、父親の教育を洗脳であり、子供は両親を選べないとか、
父親の教育は極端な偏向であり、社会性に欠ける子供たちがかわいそうとか、
そういう事ではない。人は社会性がなければ生きられないとか、父親が
途中、子供たちを義父に預けて去るエピソードがあるのだが、それをもって、
父親が目を覚ましたとか、そういう話では全くない。

この映画の主題は「常識を疑え」である。そして我々が信じている世界は、
それほどまともなのか?という問いかけなのだ。父親の教育が異常にみえるなら、
我々が施された教育もまた「異常」である。子供が父親に洗脳されているように
見えるなら、我々もまた親に洗脳されているのである。葬儀はキリスト教なら
土葬であると決められていて、仏教式の火葬が異常に見えるなら、我々もまた
「常識」に洗脳されているのである。

むしろ、父親の自分で考えろという徹底した突き放し教育は、現代教育に完全に
欠落している要素であるし、資本主義という社会において金を稼ぐという行為が
全てと思っている我々には、森での自給自足生活は異常であろうが、元来人間は
そうやって生きてきたという紛れもない事実を再考せざるを得ないではないか。

現代の親は子供に嘘を教え、ろくに考えもしない人間に育てている。それを問う
ているのがこの映画なのだ。この映画をみて、父親が現代社会との折りあいを
つけるのを見て、やっぱりそうではなくては、と思った人はかなり危ないのだ。
自分が如何に現代社会に洗脳され、それを心の髄まで汚染されているのかを自覚
する必要がある。

父親が社会から認められることはない。なぜなら、社会が異常だからである。
だから父親は子供にとって本当に必要と思われることを叩き込んできた。だが、
父親はまた子供に必要なものがあることにも気が付く。社会とは異常であると
いう体験と、不合理な人間社会もまた世界の一部である事を教えねばならぬと。

正しさだけでは生きられない。そういう自覚こそ父親が義父に子供たちを預けた
理由だろう。映画では結局、こどもたちは父親と過ごすことを選ぶのだが。

この映画はへんてこファミリー映画でもなければ、社会性の重要性を説く
映画でもない。そういう感想しか持てない人々が持つ現代社会の自己中心的
視点に対する懐疑であり、常識という名の非常識への挑戦なのである。

ごく普通に考えたら、彼らの思想はむしろまともではないか。そういう意図が
この映画の主旨であり、その思想を我々は異常だと簡単に断じていいのか?と
問いかけているのである。いや、我々の思想だって、社会から与えられた異常な
思想なのだが、その異常さに気が付けよ!と訴えているのである。

彼らと我々の違いはただ一つ。その思想を信じている人間の数である。では、
思想の正しさとか確からしさとは何なのか?まさに映画の主題であった。

この映画を観るならば、そこに描かれる異常性は、すべて我々の異常性であると
自覚すべきなのである。
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心の時代ー人生再考ー

若い人はいざしらず、ある程度歳をとれば、人生が見えてくる。 人生の在り方とは、自己の努力以外で大きく変化する。戦時下に生まれていれば、 その影響力を受けた事だろう。幸いにも現代は中間期である。 かの敗戦後の日本人は素朴に思った。「これからは経済で勝負だ!」と。 アメリカや西洋の強力な軍事力の前に、ひれ伏した経験は、反動を伴って人を動かした。 見かけ上の敗戦は、残念ながら戦争を終結しなかった。日本人は今も戦時下にある。 少し前までは、冷戦という形で世界は戦時下にある雰囲気であった。 そのため、国体を護持する事が大きな使命であった。知恵ある政治家たちは、 アメリカの庇護下に身を置くという形を選び、その内において経済を発展させることに 力を注いだ。結果として、日本は<社会主義国>として戦後発展を遂げた。 多くの人は資本主義だと思っている現代日本。だが内実は戦後ずっと社会主義である。 私的所有を認めつつ、計画経済を進めるという体制である。官主導の計画経済であり、 日本人に植え付けられた自発的隷属という思想がまさに社会主義を体現するのに相応しかった。 このあたりの詳しいことは、石井紘基氏の著作等にて確認されたい。 70年を経て、ここ30年間にて、アメリカの思想を随分と取り込んだ。その結果として、 経済格差がいよいよ開き始めている。この格差は資本主義であれば当然である。資本は もうかる所に投下され、その不労所得で大金をせしめる。これが資本主義である。自由主義 という思想とはやや異なるのだ。資本主義の本懐は、資本の増殖であり、自由とか民主主義 ではない。これらは別の概念とみるべきなのだ。 現代では、人口オーナス期に入り、成長は終わった。これは必然的作用である。今後は、 この揺り戻しを経て、バランスがとれくるはずだ。だが、その100年スパンの出来事に 人間の浅知恵は届かない。我々が決める事はせいぜい数年先であって、10年ですら、現代は 予見できなくなってきた。それは、社会の変動が激しいからである。 単純な思想、一生懸命働いて、金を稼ぎ、家族を形成し、子を育てる。これは非常に大事である。 そして人間の根幹をなす。だが、この意味はだいぶ取り違えられてきた。人は元来、遊ぶものだ。 そうして生きる事がベースの生き物である。好奇心とはそのためにあり、それがために人類は 移動を繰り返してきた。だが、それが戦争という社会構造によって歪められ、人生が社会によって 犠牲になることを是とする思想がはびこった。幼い頃から、歪められた思想を吹き込まれた事で 突然、ヒステリーを引き起こす。それは行動と感情の乖離から来る。もっと遊びたいのに、抑制 され、苦役こそが人生であるかのように喧伝されている。 人々は、このような中で自己を守るため、自己を保存するためか、殻を作り出す。 精神的な鎧だ。本当の自分をひとまず脇に置き、社会的役割をまっとうする。そうすることで、 社会はその個人に生存権を与える。いつの間にかこのような社会システムになっていた。 大人たちは、戦時下の思想を保ち続け、社会をまわし続けた。いや、そのように振る舞うことで 思考停止をし、これでいいじゃないかと、嘯いてきたのである。事大主義のことだ。社会システム が人々に要求するものがあり、それを個人が忖度する事で、社会が回る。これは江戸文化を引きずった お上への恐怖と服従の思想なのかもしれない。ともかくも経済が成長し、人々はその快楽に酔った。 だが、全ての資源には限界がある。物理的なものには制限がある。土地や環境は、幻である金や 証券などとは異なる。一度毀損されれば、元に戻るのは数十年や数百年かかる。これらを消費する 事で大きくなった経済は、それら資源の枯渇が見え始めた時から、頭打ちだったのだ。 回らなくなった経済。現在、社会を実質的に動かしている中高年は、自分たちのやり方が正しい と思い込んでいる。それはただ、人口増加に伴う経済成長と世界経済とのバランスの中で、工業製 品がうまく売れたという外的要因に強く規定されていただけなのだが、それを自分たちの行為の 結果と信じ込んでいる大人たちは、現代を理解せず、ただ懐古主義に陥っている。 そうして、少し若い世代、50代以下くらいから、かつての経済大国ニッポンというエートスを 疑い始めた。いやもう20代に至っては限りなく希望がない世界に生きている。社会問題は解決の 糸口を見いだせず、ただなすが儘に日々を送っている。 早晩、日本は終わる。ひとまずそう仮定して考えよう。金融政策でじゃぶじゃぶに なった円は、そろそろインフレを迎えるはずだ。そしてコントロール不可能な次元になる。 それと前後して、取り付け騒ぎが起こり、預金の凍結が行われるだろう。年金うんぬん 以前に円に価値がなくなるからだ。人々は戸惑い、激しい怒りを引き起こすだろう。 誰がこんなことにしたのかと。簡単である。それは今現在まで進行中の政策のせいだ。 80年代から引きずる日本の国家社会主義によるものだ。それはソ連の崩壊と同じ事である。 これを知っているものは、万が一のため、外貨で貯金を作り、海外の銀行に預けている。 円建ての資産は崩壊するためだ。今なら、ビットコインなどブロックチェーンを用いた形で、 資産形成することもありだろう。ともかく、円がまだ実体を伴っている現在のうちに 資産のバランスシートを見直す必要があるのだ。 むろん、経済が終わっても人々は死なない。ひどい社会を生き延びるしかない。 経済が傾けば、そこかしこに生活が立ち行かない人が増える。彼らはいざとなれば、 犯罪を犯すだろう。ハイパーインフレ状態になれば、金は役立たない。仕事をして 働いて稼いだところで、日々の生活品が買えないかもしれない。すると、誰か金持ち の家を襲撃して、金品を奪った方が、割にあうかもしれない。なぜなら、日本の犯罪 検挙率は20%程度と言われているためだ。一山あてるなら、仕事ではなく犯罪という 世界が生まれてくる可能性は否めない。 若者は街にあふれ、老人たちは途方に暮れる。まともだと思われる官僚制度も、 さすがにデフォルトした後では立ち行かないだろう。ここで唯一戦力になるのは、 自己の事よりも他者を慮る人々であり、自己利益のためではなく、他者のために なる行為である。助け合うというごく当たり前の行為が可能な人々こそが生き延びる。 何かを守る人だからこそ、いざという時に力を発揮するのである。こういう事は、 金持ちにこそ、遠い話である。 カネという唯一の尺度が失われたとき、我々は何を志向するのか。当たり前だが、 それは他者であり、協力であろう。そして、心の問題なのだ。 益々、偏向する社会状況。あらゆる面で、二極化が進む。この状況下では、 自分の置かれた立場から違うゾーンに進むのは困難になる。それは単に努力と いうことで済まされる話ではない。例えば、貧困家庭に生まれたとしたら、 大学進学は困難になる。それだけで社会的な不利になる。こういう事柄の一つと して、心の在り様も二極化が進むだろう。 心の在り様とは、結局、宗教的心を意味する。どんなに金を稼ごうが、どんなに 物を持ったとしても、どんな贅沢を費やしたとしても、そんなことにはすぐに 飽きてしまうか、一時的な満足しか得られない。だから、資本主義では手をかえ、 品をかえ、新しい欲求を生み出し続ける。それを得ようとして、更に金を得る 事を求める。こうして社会が回る気がしていた。だがそれも嘘だと分かってしまった。 若い人は気が付かない。一番大事なものは、健康である。それも二つの健康、 身体の健康と精神の健康である。これを保つことがほとんど人生の最大の目的 といってもいい。そのために、あらゆるものがある。宗教でも、金でも、仕事でも 恋も、結婚も、すべて健康のためだ。我々生き物の目的とは、コナトゥスによる。 つまり「生き延びろ」である。このためならば、どんなことでも肯定してきたのが 人類史である。その根幹はとどのつまり健康である。 金があっても、物があっても、五体満足であることにかなわない。金で健康は 買えない。一度手を失ってしまえば、それは金で代替できるものではない。 そういう事を踏まえたうえで、なお、我々はどんな生活を送るべきなのかと 問いかけたい。それは決して、明日の不安を仕事で紛らわせて生きる事ではない だろう。
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人はなぜ流されてしまうのか? [思考・志向・試行]

多くの人は、自分の環境に合わせて生きている。それは学習の賜物であり、
そのように人は外界に対する適応力を持つ。それがために、本来、生物学的に不可解な
行動もとれるようになる。それは感情に逆らう行為の事だ。

感情に逆らう行為とは、我慢や代償の事を意味する。大抵の人は、欲望のままに生きられない。
少なくとも、欲望の充足には他者の抵抗を乗り越えなければならない。我慢や代償は行為の
価値を変容させる。そうして歪んだ価値を信奉することで、自己肯定を始めるのだ。ここに
人の愚かさと人間らしさが生まれる。つまり葛藤である。

葛藤を持たない人はいない。だが、葛藤の少ない人間はいる。それは二種類あって、
そもそも、心性が素直で、状況と信条が合致している場合がある。これは幸せなので、ここでは
問題にしない。一方で、感情の抑圧があるのだが、それを無意識下に押し込めており、表面的に
葛藤がないかのように振る舞うケースがある。この事が大きな問題を引き起こす。

本来、感情と行為の間にずれが生じた時、人は罪悪感や不安感に襲われる。そして、その葛藤を
なんとか状況に応じて取り除こうとする。だが、それが出来ない時、出来ないと諦めた時、
葛藤はなかったものとして扱われるようになる。それが人の生存戦略である。

よって、多くの人は、感情の隠蔽を図る。そして案外と上手くいくのだ。
だが、ひょうんな事でそういう感情が沸き起こることがある。特に、他者がその葛藤に苦しんで
いたり、葛藤をうまく乗り越えている様をみると、自分の中の感情が共鳴し、揺さぶられる。
それは羨ましいという感情であったり、愚かしいという蔑みであったり反応は様々だ。

そうして蘇った感情への怒りを解消する手段があればいいのだが、その感情は隠蔽した過去が
あり、その一貫性を保つために、意外な行動に出る事になる。それは、他者の葛藤を隠蔽しよう
という行為である。もしくは説得である。自分が隠蔽した感情なのだから、お前も隠蔽しろという
強制を行うのだ。これが、感情を抑圧した人間の最大の罪である。だが、このような事は普遍的に
存在するのだ。

具体的なことで言えば、親子の関係がある。親は自分がどのように取り扱われてきたかを
よく知っている。そして、それをもって、子供に対応する。とあることをした時に、叩かれた
とか、禁止されたとか、感情の抑制を強要された事。これを躾と称してそのまま子供に行う
のである。こうして子供は感情の抑制を身に着けてゆく。

現実的にこのような作業は人間社会では必要なのだろう。では、これによってスポイルされた
感情はどこに行くのか?それは行為となって現れる。より弱いものに対して発揮されるのだ。
いわゆるいじめも、動物の虐待なども、このような感情の抑制を強要されたことに端を発する。
他者に不快な思いをさせてやりたいというのは、人間のもつ本能なのだろう。とりわけ、
うまく行っている葛藤の少ない対象に向かって、このような行為が発生する。要は復讐なのだ。

このようなルサンチマンが堆積するのは、欲望の抑圧からくる。ならば、欲望を叶えれば良い。
だが、欲望は必ず抑制される。隠蔽される。欲望にキリがないのは人は欲望もまた学習するからだ。
結果として、社会には欲望の抑圧が発生し、そこに暴力が生まれることになる。暴力の抑制には、
自己における暴力性の自覚というメタ認知が必要だ。むろん、無自覚な人はごまんといるし、
暴力を暴力と思っていない重症な人々もまた多い。

一方で感情の抑圧には、暴力の発生以外の側面もある。それは集団生活の問題だ。
企業、とりわけ大企業にて働く人々は、暴力性が低い。これは円滑な集団生活において重要な
性質である。とはいえ、人々には感情があり、欲望がある。また感情には良心というものがある。
これらを抑制する事が果たして良いのかどうか、考えたほうが良い。

よく就職活動で問われる資質として、コミュニケーションがある。これは少々、中性的な言い方
過ぎる。本当に問われているのは、指示に従順かどうかということだ。つまり感情的な抑圧が
うまく機能するかどうかである。これらの機能が発揮されるほど、集団において使いやすい人物
になる。これは仕事に工夫が必要がない時に、最大限発揮される。加えて、体力があれば尚よい
仕事人間になる事だろう。これを社会は是とする風潮がある。

感情を抑制した人はよく働く。会社の決定が倫理的に不可解であっても、感情を抑圧しているが
ために、文句もいわず、指示に従うのである。このような人物を作り出すために、学校教育は
存在する。少なくとも現時点ではそうなっている。それに対してあまりに人々はナイーブなのだ。

感情を抑圧した人はどうなるか。組織の在り方に従順であるということは、ある意味でロボット
なような存在となる。だが人はロボットではない。だから、この抑圧した感情の回復をどこかで
望む事になる。それは娯楽と一般に呼ばれる。遊園地などレジャーや、音楽、映画、テレビなど
だ。これらを体験・観ると感情の抑圧から一時解消された気になる。もちろん、慢性的な抑圧を
続けているがために、自分の感情を失っている事にすら気が付かない。だが、これらの遊びが
多少なりともストレス解消になるとはわかっている。時に酒で暴れたりするのは、この抑制が
文字通り外れるからだ。よって酒で暴れる人ほど溜めこんでいる。普段、いい人と呼ばれる事も
多いことだろう。

感情の抑制があまりに自然に出来るようになると本当の自分を見失ってゆく。そしてあらゆるもの
に対して感情が反応しなくなってゆく。これは幸福と反対にある状態だ。社会的な地位や立場が
要求する理性的反応をおい求める事で、人の心は荒んでゆく。そしてある時、限界をむかえる。
それは自分に向かうこともあれば、他者に向かうこともある。引きこもるのも、社会的な活動を
するのもある意味で、同じことの別表現である。ともかくも、魂が引きされているわけだ。

それなのに、なぜ人々は自己の行動を変えないのか?変えられないのか?
ここで私は提案したい。このような感情の抑制を自覚せよと。何気ない生活の中で、人々は
感情を失いかけている。その状態に対する怒りが存在している。それが長年続けている事で、
それを普通の事だと考えるようになる。つまり「おとなになれよ」とか「人生なんてそんな
もんだ」という思想である。だが、それは断じて違う。

人々が事態に流されるのは、一つには感情を失ってしまっているからだ。悪い倫理にだけでは
なく、良い倫理に対しても感情を失っている。そうして、自分には意志がないかのように振る舞い
指示に従っているだけだと自己を肯定する。その内容が自分にとって不適切であっても。だが、
そのように諦めた時、人は幸福から一歩遠ざかる。そして感情をまた一つ失うのだ。

ならば、自分のもっている感情をもっと尊重すべきではないか。どうして違和感を感じたのか、
どうして、嬉しかったのか、どうして悲しかったのか、もっと大切にしなければならない。
幼少期より、そのような感情を抑制した人間は現代社会では”成功”している。だが、感情を
失った人間は合わせて幸福を失っているのである。

今日の中で、どんな感情を得たのか、そこにフォーカスして欲しい。それを失ってはいけない。
魂はこころとつながっているのだ。
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欲望の果てに [雑学]

欲望とは何か?人は三大欲求を持つ。この欲求を満たそうとする事が人生であろう。
ところが、この三大欲求が拡張されたのか、それとも別の欲求があるのか、人は三大欲求の
満足だけでは事が足りないようだ。

食欲や睡眠欲、性欲を根幹とするわけだが、この時、睡眠欲求以外は個人ではナシ得ない事に
気がつく。食は少なくとも環境が必要であり、性欲は他者を必要とする。これらの欲求を充足
する際に、我々には多くの付随した欲が生まれる。そして、これらの確保において様々な葛藤
も生まれる。

3つの欲求は実はより抽象化される。食とはつまり取り込む事であり、性欲とはつまり排出する
ことである。そして人は各欲求を抽象化できる。例えば、様々な情報を摂取する
ことは食とつながる。誰かに話をすることは性欲とつながる。入力と出力の関係なのだ。
そして睡眠とは、その咀嚼である。入ってきたものを体内に収め、それを出力する。これが
三大欲求の大きな役割となる。よって、人の基本的な生存スタイルとはこの入出力関係の
問題となる。

人が欲求を持ち、その欲求を充足出来ない時、人はその強度に応じて行動に出る。だが、満たすべき
欲求の大半は満たされないままに終わる。とりわけ、性欲に関する部分についてはその不全感が
凄まじい。なぜなら、我々の欲求は肥大化を続けているからだ。

人は学習する存在である。この学習とはもっぱら他者を真似る事から来る。他者の振る舞いこそ
我々は強力に学習する。時に他者の情熱ですら学習される。よって、他者の行為を認知すると、
我々は自然とその行為に及ぶのである。特に、その行為によってもたらされるだろう快楽を
目の当たりにした際は。人の真似をするのはいい。だが、真似をしたくても真似が出来ない事は
往々にして起こる。それはリソースの問題である。

他者から受けた影響により内面に生まれた欲求を満たすために人々は行動を駆動される。それらの
行動は三大欲求に基盤を持つものであり、とりわけ食と性は外側に見える行為なので影響を受け
やすい。現代の社会は伝聞だけでなく、文字や映像などで情報が流される。これを見た人々は、
内面に欲求を抱くようになる。ここでこれを「学習性欲求」と呼んでおこう。学習性欲求の問題点
は、キリがないことだ。

人はこの欲求を満たす手段を探す。そしてここにおいて経済に接点を見出す。つまり、金だ。
子供は気がつく。大人は金を得ることで、諸処の学習性欲求を満たすことに。そして社会は
次から次に学習性欲求を人々に植え付ける。それを満たすため人々は金を得ることに奔走する。
そう、まさに資本主義の原理である。資本主義が共産主義よりも上手くいった要因の一つは、
その原理が人の有り様に合致していたからだろう。人々は今もなお、欲求を植え付けられ、
それを求めんがために、労働を繰り返す。

昨今では、この学習性欲求を減らそうという動きも有る。それが断捨離などだ。そう、人々は
からくりに気がついた。学習性欲求がどこからくるのかを。そもそも、それらを学習しなければ
それらは要らない。情報も減らすのだ。テレビや新聞を見ない事で、人々は欲求を減らすことが
出来るだろう。

ここで重要なのは、欲求を減らすというのは、欲求を抑えることとはまるで違うということだ。
多くの人は勘違いをする。欲求を我慢するのは良くないのではないか?欲求を満たす事は決して
悪ではないと。そうではない。そもそも欲求を起こさない事が重要なのである。そしてそれが
学習性から来るのであるから、そもそも情報に触れなければいいのである。それが欲求を制御する
ためには一番良い。

外部からではなく、人々がもっと身体から発する欲求に忠実になれば、人々はより幸福に
生きられるのである。それを満たすための労力はそれほど多くはないはずだから。

とはいえ、現実は全く異なる。現実には、多くの欲求を吹き込まれる。思想を吹き込まれる。
平等主義とは日本人が強く吹き込まれる思想の一つである。この裏側には、他者の利得に対する
嫉妬がある。この嫉妬の感情は、結局の所、食欲と性欲である。リソースが有限の場合には、
誰かが食べ物を食べてしまえば、自分が食べられない。誰かが性欲を満たしているならば、
誰かが性欲を満たすことが出来ない。そういうリソースの分配問題が、平等主義の背景には
存在する。その上で、満たされない欲求に対する不全感を抱く。みんなが憧れるものこそが
喧伝され、それを実現することが「幸せ」であるかのように洗脳されるからである。だが、
それが実現が困難であるからこそ、人々はそれを得ようと経済行為に勤しむ。なるほど、資本主義
とは良く出来ているのだ。

マズローの欲求を見れば、社会的欲求や自己実現の欲求などがあるが、これらは三大欲求の
変形にすぎない。他者との円滑なコミュニケーションとは食欲と性欲の延長であり、他者から
の承認とは、食に関する安定的機会の保証である。高次に見える現象も、入力と出力の関係に
過ぎないのだから。

現代社会の大きな問題は、学習性欲求によって肥大化した欲求を満たすことが出来ないという
不全から訪れる。金を得たいというのは、不全を逃れるための手段である。満たされぬ性欲の
解消のために、アイドルを追いかけたり、二次元に対する嗜好性を強めたりする。ドラマや映画
などメディアが喧伝する恋愛なるものが非日常化し、そのような欲求を引き受けてしまった人々
は、妄想の世界でしか実現しない欲求を満たそうするわけである。

全ての人がリソースを得られるわけではない。ではどうやってリソースを分けるのか。これが
社会のルールであり、我々の行動の第一義的制約である。資本主義では金という媒体によって
リソース分配を模索した。その一方で、人々を決して満足させないように情報を垂れ流した。
人々は知らぬ間に、消費活動に勤しむようになる。本来それは必要なのだろうか?

金が全てな社会になれば、人々は争うようになる。人よりも多くを得ようとする。自分の
リソースを最大化することこそが人生の最大の目的となる。ここから、戦争が引き起こされる。
そのような欲求を抑制すればいい。例えば、宗教はこの精神性を制御するシステムであるが、
今日ではだいぶ頼りない。ではどうしたらいいのか。

極端なことを言えば、素朴な三大欲求の抽象化を避けることだ。そしてそれをメディアで
伝搬しないことである。北朝鮮の人々はぞんざい幸せに生活しているのかもしれない。それは
比べるべき他者がいないからである。我々があまりにも肥大化させてしまった学習性欲求を
いささかでも減じることが出来るとすれば、それは情報をシャットアウトであろう。

入力を減らすことで、また出力も減る。過剰に摂取した情報に踊らされるのではなく、
自己の身体性に照らして行動することが重要だろう。入力によってもたらされた欲求を満たすべく
金を得ようと試みるのではなく、入力自体を減らせばいいのだろう。

とはいえ、人々は想像だけでは変わらない。行動も変更出来ないのである。
だからこそ、人々は文化交流に勤しんできた。他者の欲求を見つけ、それを自己に取り込む。
また一方で、自己の欲求を他者に感染させる。ここに文化が生まれた。

コミュニケーションとは、模倣であり、情報の伝播であるが、それは食であり、排泄なのだ。
そして、表現者とはこの排泄における見事さを担保出来る人のことなのだろう。人々はこうして、
出力の欲求を満たしてきたのである。では表現出来ない者はどうしたらいいのか?これを満たす
ために人々は踊るのである。身体を表現化する事で、排泄行為の代償をするわけだ。つまり祭りだ。

各地にある祭りとは、このような精神的な排泄行為であり、この装置によって、満たされない
性欲をカバーしてきたのだ。だからこそ、祭りと性は切り離せないのである。

現代人は、これらをあまりに意識していない。むしろ、資本主義とは人々を欲求不満にさせる
システムである。人々を欲求不満状態に留め続ける事こそ、経済が回る原動力となっている。
この質の悪い仕組みはやはり再考されるべきだろう。この欲求不満解消にすら、金が必要なのだ。

意識的か無意識的か、過剰に浴びた学習性欲求に対して、現代人は金をかけて祭りを催す。
それはコンサートであり、演劇であり、野球・サッカー観戦であり、手軽には映画や音楽であり、
youtubeである。そしてSNSなのだ。これらがもたらすカタルシスは少なからず、人々の精神を
保つことに寄与しているのだろう。だが、十分とは言えないのだ。なぜなら、コミットが足りない
のである。他者の表現を取り込むだけでは、自己の欲求は満たされない。自己が表現する必要が
ある。ここを間違えてはいけないのである。表現者を特殊な職業とみなしてしまうのが日本人の
変な思想なのだ。元来、我々は表現者であり、それをやめると精神・身体に変調を来すのだ。
カラオケくらいでは十分ではないのだろう。

日本ではあいかわらず、自殺が多い。そして未遂や心的に病む人間が多い。
これは学習性欲求の不全から来る。ならば、これらを一度捨て去ってみてはどうか。
また、祭りへもっと参加するべきなのではないか。表現することをもっと日常化すべきではないか。

人類不変的に存在する祭り、音楽は、決してただの余暇ではない。人々に必要な排泄行為の
一部である。現代はそれを商売にしてしまった。金がなければ、祭りにも参加出来ないとは、
それは八方塞がりになることだろう。

欲望が芽生えた時、それが自分の欲望なのか、他者から受け取った欲望なのか考えた方がいい。
日常的に性欲が満たされていない人は、その影響を小さく見積もらない方がいい。その解消に
祭りに参加する事を考えたほうが良い。

結局、人は自分の欲求をみたせば、満足する。その沸き起こる欲求自体を減らせば、労苦は
少なくて済む。そして性欲を十全に満たしているならば、人は金を多分に必要としない上に、
安定状態を保つことが可能なのだ。もっと我々は自分の欲求について理解すべきなのだ。
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良き結婚とは?ー恋愛結婚の帰結ー [雑学]

離婚率が、お見合いと恋愛結婚で違う事をご存知だろうか?
http://cocoloni.jp/love/446777/
10%と40%らしい。

恋愛結婚とはより人の性に近いといえる。好きな人と一緒になっても、その感情は、
必ず治まる。その結婚の動機が、恋愛感情にあるとしたら、気持ちが冷えたら、
離婚する他無い。これが恋愛結婚の離婚への王道なのだろう。

もちろん、冷えたからといって関係を続けてゆく。だから6割の人達はなんとか進めるのだろう。
とはいえ、4割が失敗しているのならば、おそらくこのシステムは失敗なのだ。

昔の人は賢かったのかもしれない。親が決めた相手とは、それなりにうまくマッチしていた。
現実問題という意味において。その一方で、恋愛感情もまた存在した。よって、恋愛は婚外に
おいて行うという話もある。現代でも、クラブなどに通う男は恋愛の夢をみる。

恋愛感情をベースに商売するのが、水商売である。相手が自分の外的・内的魅力に依存する
ように仕向けるわけだ。そこに「応援」という形で金をせしめるわけだ。このひとは自分の
マブなのだから、私が売上に貢献しようという人の心のロジックをうまく利用する行為である。

恋愛結婚も遠目でみれば、水商売と変わらない。女性が、男性が、魅力を元に自分の生活を
安定させるという事ならば、まさに水商売である。三食昼寝付きの売春というひどい言いかたも
さして矛盾はない。

これをもっとビジネスライクにするならば、お見合いだ。もちろん、人対人だ。
だから、今のお見合いは親たちが決めた縁談という意味とはだいぶ違う。ある意味で、
人間カタログがあって、その中から選ぶという作業であり、一種の消費行動である。
カタログで決めたので、満足度は高くなる。加えて元々、相手を知らないために、
気持ちの変動という現実にぶつかることがない。よって、恋愛結婚よりも安定的な結婚となる。

結婚して家庭という小商いをする上では、恋愛よりお見合いが有利なのは分かった。
では、内実はどうなのだろう?

https://moomii.jp/couple-family/matchmakingmarriage-regret.html
少なからず、後悔もある。だが、恋愛結婚よりも満足度は高めだ。

https://wedding.excite.co.jp/happy/
このデータは興味深い。なぜなら、恋愛結婚で重視される事柄が結婚の満足度に対して、
相対的に低く見積もられているからだ。容姿や年齢差、職業はほとんど結婚生活に関係ない。
ここまでは恋愛でかなり重視される要件であるから、その意味で、恋愛結婚では目が曇っている
と言われても仕方がない。

では、どうしたらいいのか?それはもう一度、結婚と恋愛を切り離して考える事だろう。
そもそも、恋愛と結婚は無関係である!!!これを多くの人は勘違いしているわけだ。

結婚というのは、社会制度である。恋愛というのは生物学的な反応である。まるで違う。
この違いを全く忘れているために、結婚という小商いの時に躓くのである。

お見合いとは要するに”ビジネスパートナー”選びである。生活を送る事が主眼にある。
ならば、きちんと労働して稼ぎが有ること男に求められ、子供を育て、家事を回すことが
女に求められる。(これはジェンダーとしての男と女であるので、これらを逆の性が担っても
いいし、両方で分割しても良い。)これらが満たされるかが主眼であるために、結婚という
目的のための行動として、理にかなっているわけだ。

恋愛と結婚とはまるで別の次元である。それはアイドルに浮かれる人々の気持ちのような
ものだ。人が生物である証でもあり、その感情によって人という種が滅ばないようになる。
そして競争的に相手を選ぶ事で、より魅力度の高い個体が増える事になるはず。いや、これは
戦略の違いである。恋愛でものをいうのはある程度の外見的魅力である。内面的魅力ももちろん
あるのだけれど、それはどうしても後回しになる。外見的魅力のある人物の生存戦略は、
早いうちに自分の魅力をつかって、その社会において有利な伴侶を選ぶことである。

一方で、普通の結婚がそこかしこにあるのは、内面的な魅力が認められるからである。
こういう人は、外見的に選ばれないが、お見合いや親の縁談などで、無理やり進められて
一緒になれば、内面が評価される。そのことは、他者承認を得られる事になり、心的な
安定を得られるだろう。これが彼の生存戦略である。

要するに、恋愛に向くような人々は結婚に向かないという厳然たる事実である。
他者からの承認を恋愛から得ていた人々は、自分本意になりやすい。それも外的魅力が
強いほど、他者からの承認が内面の問題から離れてしまう。これが結婚生活における不満足
につながってゆく。結婚すると外見より、相手を気遣えるかとか、尊敬できるかなどが
主に問題となる。その時、内面的に評価されなければ、辛いことになるだろう。

さて、最後にそもそも論を述べよう。幸福な結婚は確かにある。一方で、不幸な結婚も有る。
これである。要は組み合わせの妙なのだ。

今まで、お見合い結婚を持ち上げてきたが、お見合い結婚でも駄目な事はある。
例えば、スペックで選んだ場合だ。特に女性が男性の男としての魅力をあまり感じないが、
スペック的に素晴らしい人を生活のためと割り切って選んだ時不幸は訪れる。ありがちなのは
医者や弁護士など、高給取りの男と、外見的魅力がある打算的な女性の結婚である。

女性は打算で選んだので、本質的に男性を愛していない。相手を尊敬し、尊重できないのに、
その子供はなおさら愛しようがない。つまらない男と蔑んでいながら、その収入や社会的
ステータスのために、生活を送ると、その方面に対する欲求は強くなる。つまり、好きでもない
男の嫁になってやったのだから、その対価をよこせと主張するという関係だ。こうなると、
この家庭は不幸としか言いようがない。子どもたちもこんな夫婦に愛されるはずがないのだ。

昨今の恋愛結婚と呼ばれるものの中に、こういう関係性があるのではないか?個人的には、
お見合いが安定すぎると思う。合コンなどで、相手をみつけ、数年後に結婚するという
スタンダードな行為こそ、まさに上記の問題を孕むのだろう。男は相手の外見を、女は
相手のステータスを選んでしまった。この組み合わせこそ、結婚という小商いに向かない
ものはない。

現代日本では、結婚は減ってきている。が一方で、結婚した人々も上記のような、そもそも
無理筋を選んでいる可能性は否めないのだ。お見合いの良さは、このような組み合わせを
減らせることに有るのかもしれない。

どんな結婚にしろ、相手を認めてあげられるかどうか、それは条件ではなく、相手の存在
そのものを認めてあげられるかどうか、そこが大きな分水嶺なのだと思う。
あなたはどう思うだろうか?
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結局、金持ちって事は。。。脱平等主義 [雑学]

勘違いが起こっている。あらゆる意味で多くの勘違いが発生している。
それは日本人に本来馴染まないものであった。だが、人々は我慢して受け入れているし、
そうしなければ、発展しないからだ。そう、それはキャピタリズムのことだ。

日本人は他者との比較が激しい。文化的なものなのだろう、悪平等主義である。
元来、平等主義の社会だったのに、そこに資本主義が投下されたわけだ。相当な矛盾である。
共産主義が投下された方が、日本にとっては馴染めたかもしれないのだが、あいにく我々は
アメリカに負けたのだった。

元来が平等主義なので、抜け駆けを許さない条件が大好きである。そういうルールが
そこかしこにあるのが日本である。これを理解していないと、いじめにあったり、村八分に
されてしまう。よく気をつけるべき。よくあるいじめ対象として強いが抜け出ていない才能と、
弱くて踏み台にされてしまう人格がある。どちらも、平等というなの平均値から遠い関係に
ある。日本人は、直ぐにこれを見抜き、侮蔑の対象に仕立て上げる。そうすることで、自分たち
の魂を死守しようとするのだ。そこには、組織全体を眺める視点など皆無である。ましては
環境ことなど考えが及ぶはずがない。だから、日本では常に「世間」というなの平均回帰原則
を押し付けてくる。

流石に21世紀になれば、海外渡航経験のある人々が増えている。すると、日本の文化が
ある意味で特異的であることも明らかになる。そして西洋崇拝主義が生まれてくる。そういい
たい気分はよく分かる。だが、日本人のエートスは平等主義、それもかなり堅固な平等主義
である。全くもって、社会主義の国のようであるが、誰もそうは認識していない。

元来、社会主義のような思想なのに、そこに資本主義を導入するのだから、まるでわけが
わからなくなる。残念だが、日本の思想には多分に矛盾があるのだ。競争といって非対称
ゲームを行っていたり、平等といって、抜け駆けを企んでいたり、特にお上に取り入るという
事に関しては相当に知恵が回るらしい。その既得権益をこそ変更すべきなのだが。

平等主義の社会であっても、実際には平等ではない。
誰かは、良い会社にいるし、誰かは良い伴侶に恵まれる。それは主に時の運なのだが、
それを平等主義は妬むのである。思想として平等を基盤にするがために、周りとの違いが
問題を引き起こすのである。平等が失われる気配に対してあまりにも敏感なのだ。

そこで人々は考えた、役を作ればいいのだと。みんなが平等に出来ない事については、
役を与える事で、差異を是認しようというのだ。社長や経営者、部長など、長とつければ、
平等性が崩れても、みんな我慢出来る。役が異なるのだとなれば、その不平等生は不問と
なる。これが日本社会のエートスである。

すると、どうなるか。出世を望むものは、役を得ようとする。元来、まとめ役とかサポート役
などは人間関係の結果として発展するものだ。それは関係性であって、人格の問題ではない。
相対的なものであって、固定化されるものではない。それなのに特定の組織でより良い暮らしを
求めるならば役を得るしか無い。それは役に対して処遇が決定されているからである。この
ポジションに対する処遇というのが、日本人が考えだした平等主義における格差許容の
メカニズムであった。そして、この役を順次、年功序列で埋めていったのだった。

だが、考えてみて欲しい。まとめ役が必ずしも、ムードメーカーよりも良い仕事をするわけ
ではないし、仕事が大変とも限らない。よって、この役で富の配分を決定するのは本来的に
おかしいのだ。加えて、役を得る人間が年功序列で決まるなら、役とはただの形式である。
元来、人間的関係性で決まる役が、それに当てはまらない形の人事を行うことになる。

こうして、役の有用性を削ぐような人事が行われる事になる。実際上の人間関係を踏まえて
いないという点において、一つの過ちを犯し、そもそも役に対して処遇を決めるという2つ
目の過ちを犯している。このような形の人事で組織が上手く回るわけがない。だが、戦後の
日本ではこのような形の組織が幅を利かせてきた。それはどうして上手くいったのか?

一つには経営の既得権益化だ。つまり商売が構造的に安定するように努力したのである。
誰が経営をしようとも、利益の出方がさして変わらないのであれば、内部政治を頑張るだけだ。
役を得るには人事の決定権を持つ上司に媚びる他無い。寡占状態の市場では良く発生する事
だろう。大企業や官僚組織で見られることだろう。市場がちっとも競争的でないために、
このような人事運営でも、大丈夫だったのだ。

更に、ルール化も重要である。既存システムを維持すれば、半自動的に儲かるのであれば、
やり方を崩す必要はない。やり方を変えようという人間は、相当に邪魔となる。なぜなら、
自分に回ってくるはずの役が確実に得られるようにした方が得だからだ。よって、この仕組は
ロバストになった。役に対して処遇を決め、役は年功序列で埋めると。これをしたことで、
大きな組織は、人を見る目を失った。なにしろ判断する必要が無いからだ。加えて市場に対する
センシティビティも失った。なにしろ、実質上、競争相手などいないからだ。こうして、
日本社会は、平等主義に対してポジション依存給与体系を導入し、年功序列型人事で生産性を
あげていったわけだ。

人件費が世界的にみて安い時であれば、それで良かった。また仕事が国内生産が主で
あった時は良かった。だが現在はそうではない。競争相手は国外の企業である。
組織内部で政治を展開している場合じゃなくなったのだ。

加えて、海外のグローバル会社の運営を知るようになると経営者や資本家、銀行は彼らの
真似を始める。つまり、報酬の偏向である。役に対する過剰な報酬体系を認めさせた。
それは内部的にも社会的にもである。法人税の減税をもとめ、社会の一部の資本をもつ
連中たちが不当に儲けるように政府にもちかけたわけだ。議員たちは買収され、その意図
を繁栄した法律を生み出した。

資本主義は一部の人間達に乗っ取られたのである。労働者は目の前の役を望むのだが、
そこにあるのは、今まで以上の仕事である。本来であれば、組織全員で分担するはずの
責任が特定の人々、特に中間管理職に集中し、疲弊するようになった。役に対する責務が
増加する一方で、個人の所得は制限されてゆく。それは経済が回らなくなってきたからだ。

儲けを上層部が過剰に奪ってゆく。その一方で仕事は現場に押し付けられる。このような
組織では、労働者は仕事をこなせなくなってきた。精神的に追い込まれた人々は病むように
なる。社会全体が、既存のシステムを進めても、今まで通りに儲からないのだ。その理由は
役に対する過剰な処遇である。自分たちの利益を自分たちで決める人間たちによって変更
されたことが大きな問題なのだ。

どう考えても、一人の労働者が行う仕事の数百倍や数千倍の仕事を取締が出来るわけじゃない。
対価の決定が異常なのだが、そこを問題視する人々は少ない。なぜなら、役は年功序列と
どこかで考えているからだ。自分がそこにたどり着くならば、同じことが出来ると考えるわけだ。
また、そのような経営が出来ることが能力であると考えているからだ。

能力主義という幻想はそろそろ変える必要がある。だが、それを真に受けて無意味な知識を
沢山蓄えた人々で、小さな処遇差に満足している多くの人々が、平等主義に反抗する。自分は
努力したからこの処遇なのに、平等にしたら努力が無駄だったではないかと考えるからだ。
そうして、全体として非対称的な処遇がなぜかまかり通るようになる。

ではどうしたらいいのか。単純である。組織内の処遇をおおよそ平等にすることだ。
仕事内容や役に関わらずに。そうすることで、組織は活性化する。役にふさわしい人事が
行える。年下でも、まとめ役をすればいい。年上でも平社員でも良い。組織全体の利益を
上げることで、全ての人が恩恵を受けるのだから。

平等主義を打破するためのもう一つの秘策は、学歴である。
日本では、役を得るために、過剰な勉強を強いられる。学歴社会を勝ち残る事で、良い役を
手に入れられる。だが、その一方で多くの人間性を失うことになる。他者とうまくやるという
能力は学歴には反映されない。それが仕事上でもっとも重要なファクタなのにだ。ある意味で
日本の学歴社会はもっとも効率の悪い仕組みで人を採用しているのかもしれない。また組織内
の役を得るときも、客観性が問われる時代になった。会社への貢献度を数値化する。そうして、
役を決める事がフェアだと信じ込まされているからだ。これも平等主義の裏返しである。差を
見える形で示さないと嫉妬というパワーで組織がつぶれてしまうのだ。

だが本音では人は、好き嫌いで人を選ぶ。それ以外ではない。数値は結局アリバイ作りとなる。
アリバイなので、適当な改変が行われることも多々あろう。表向きの平等主義から逃れるため
の手法が、かえって不当に利用されることもあるわけだ。

結局、このような社会システムになるのは、思想の問題なのだ。平等性を強く打ち出す日本
社会において、がめつい強欲を満たそうとするならば、アリバイを作るしか無い。そのための
無駄な努力が日々と行われているのである。

なんだかヤレヤレなのだ。

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そろそろ、社会的自我を捨てよう。 [思考・志向・試行]

今まで、周りの人々について肯定的に解釈するように努めてきた。
自分の事を悪くいう時は、自分に非があるのではないかと考えてみたりした。

だが、もうそろそろ、そういう事はやめてもいいんだろう。
自分が感じることを最優先するように行動を変えていこう。
それで衝突したとしても仕方がない。そのくらいには強くなれるんじゃないか。

現在は、都市近郊で暮らしている。しばらく前は地方都市にいた。
地方都市にいたとき、日本全国を沢山見て回った。その時感じていたのは、
結局人は、人としか生きられないという事。幸福な人間関係はもっと追求
されるべきだと思ったのだった。

都市にいると、あらゆる場面で労働者であるか、消費者であるか、
どちらかの役目を負わせられる。それをあまりにも当たり前だと思っている
人ばかりだ。でも、そんなものは幻想に過ぎない。人はもっと人らしく生きる
方がいい。現代日本の都市では、人間らしさなど追求出来ないだろう。

地方はまだ可能性がある。これは自分の実感である。
カネという幻想に振り回されることなく生きる手段をみつけるなら、
地方の方が、よりダイレクトなのではないかと思う。

都市の連中に、どれほど日々の生活において食や語らいが重要であるかを
問うても、さほどの反応も得られない。みんな自分事であまりに忙しいために
世界を知らないのである。都市には自然はない。そんな環境でまともな人間は
育たない。人は都会人である前に、動物であり、ヒトという生き物である。
それをすっかり忘れて生きるのは、しょせん無理があるのだ。それを都市人間は
感知できない不幸な存在である。

自分の価値観が都市とそぐわなくなっている。それはもうどうしょうもない
みたいなのだ。ならば都市から遠ざかることを考えるしかない。別に、
高尚な事をしたいわけでもない。ただ、都市的なものなど無価値になってきた
ということなのだ。カネで得られるものは、結局、大きな価値を生まないのだ。

自分がどう考えるかを口にするとき、どうしても他者とぶつかるのではないかと
危惧してきた。だが、それもモノは言いようだと気が付いた。相手と意見が
違う時でも、きっと良い言い方があるはずなのだ。

現代の不毛な議論は、そういうことを全く忘れている。攻撃的な人間たちは、
きっと都市の人々なのだろう。それは不快な生活をしているせいなのだ。
不快な生活を続けているのに、それに目をつぶって、それなりの生活であると
思い込むことでなんとか生きている。だから、その価値観に反する事があると
怒りが生じるのである。その怒りがどこからくるのか本人たちは分からない。
それは信念の間違えから来るのだが、それを覗くのは、自己崩壊することに
つながるので直視されることはない。

もう、そういう人々の意見をまともに受け取るのはやめようと思う。
彼らは彼らの価値観で生きている。それでほっとけばいい。攻撃的な言説は、
単なる憂さ晴らしなのだ。それにつきあうだけ時間の無駄というのが私の
結論である。

多くの都市住居者は、不満をもっている。自分が認められないがために、
自分を認めさせようと必死になる。都市の人間はみんながみんな、自分のこと
ばかり見つめるために、誰も相手を見ていないのだ。みんなが相手をみない
ものだから、疎外感を常に感じることになる。そしてその疎外感に対する
復讐のため、富や名声で人々の視線を集めることにやっきになるのだ。
その手っ取り早い解決法が、金なのだ。

金があれば、良い生活が出来る。良い家に住み、良い車を持ち、よい教育を
子供に与え、健康に生きる。おそらく金が十全にあれば可能なことだろう。
だが、本当に必要なのは、そんな借物ではなく、自分を認めてほしいという
感情であったり、誰かの視線であったり、ぬくもりなのだ。それを得るために
は、金ではなく、時間を必要とする。もっと時間を使わなければ、それらは
得られない。

うすうす分かっている人も多い。だが、現実問題として、それを実行できる
人は数少ない。そろそろ私は実行したいのである。都市住居者が抱える空疎な
人生ではなく、中身のある行動をしたいのだ。

そのためには、まずは自分の価値観を信じること。他者がいうことに惑わされない
事。そういう意識で過ごしていきたいものである。
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