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仮想通貨の在り様ーその可能性ー [その他]

ビットコインやアルトコインなど、仮想通貨が現在流行している。
時に、ビットコインは1BTCが200万円に達しようとしている。

もともとは、コンピュータの中で定義された情報に過ぎない。
その情報にどんな価格を与えるかは、市場によって決まる。これが常識だ。
よって、仮想通貨は文字通り、仮想通貨であり、それ以上でもそれ以下でもない。

ナカモト・サトシというペンネームで書かれた論文が、
ビットコインのコアを説明している。ブロックチェーンと呼ばれる仕組みは、
分散型台帳システムにより、取引の総体を常に複数人、複数個所でチェック
しながら取引を記述し続ける点に特徴がある。

https://tech-camp.in/note/technology/28766/

ビットコインの主な特徴は、発行体がいない事、
紙幣貨幣など実物がない事、発行量に上限がある事、世界中で使える事、
価格変動は今のところ、大きい事などが挙げられる。

簡単に考えるならゲームの中のゴールドやグループ店舗で使われる
ポイントと大差ない。ただ、その情報の在り方が高度な数学を含み、
その改ざんを防ぐ技術の高さから、法定通貨の代替となる可能性を秘めている。

もしビットコインで給料をもらったとしても、クレジットカードのように
処理できるとしたら、多くの普通の人にとっては気にならないはずだ。
円と呼ばれないだけであろう。

法定通貨は、中央銀行による発行が行われている。
また実体を持つ。加えて発行量に上限がなく、価格変動はごくわずかだ。
使える場所は、主に国内のみである。

現状でこれらの大きな違いは、価格の変動性だろう。価格変動が大きいものは、
投機的な扱いを受ける。かつてのオランダのチューリップや、土地ころがしと
同じである。為替の変動はごくわずかだが、仮想通貨はとにかく変動が激しい。

そもそも、金とは何か。それは信用の事であった。信用ってなんだ?と
多くの人は思うだろう。それは要するに「将来の誰かの労働」の事である。
金が手元にあるということは、将来その金の額面分の労働を用いる権利と
いうことだ。5000万円あれば、それは家を建てるのに十分な労働を手に
している事となる。

しかしその裏付けは金が債権であるという点においてスタートしていた。
金とは債権である。誰かが借金しなければ、金は存在しえない。その意味で
仮想通貨は金のようで金ではない。また借金は人口が増えたらその額が増加
するものであるが、仮想通貨では上限がある。この辺りもリアルマネーとは
一線を画している。

仮想通貨がマネーになり得るか。現在のところ、金に代替するのは難しいだろう。
仮想通貨の増加の仕方は「信用創造」ではなく、マイニングによるものだからだ。
マイニングとは、ブロックを計算するための行為で、それを行うと報酬が
もらえる仕組みだ。よって、仮想通貨を手に入れる手段は、誰かがもつBTCを
リアルマネーによって手に入れるか、マイニングをしてその報酬として手に
入れるかとなる。リアルマネーは誰かが借金すればいい。これは大きな違いだ。

では仮想通貨が役立たないかと言えば、そんなことはないだろう。
改ざん不能性をもつことから取引の安全性などにおいて有効であるし、
世界中で使えることから、両替の不要さなどの利便性もある。

また、もっと重要な事は管理者不在という点である。中央銀行のような
存在によるものではない点をデメリットという人がいるが、それは大きな間違えだ。
金の信用とは実態にあるわけではない。大事な事なので繰り返すが、金の信用とは
国の保証などではない。それは人々の頭の中の強い幻想の事を指す。

つまり、目の前にひらひらさせている紙を金だといいはる人がいて、それを
みた人が、ああ金だと思えば、それで金となるのである。そこに国の存在性は
不要である。これが実態としての金だ。もちろん制度としての金は中央銀行に
よる発行という保証の元にある。だが、実体など使用者にとってはどうでもいい
事ではないか。

よって、信用を体現するものならば、金として有効に機能するはずなのだ。
ただし、先ほども述べた通り、現在の金の代替になるかといえば、ならない。
もう少し言えば、取引の決済手段としての仮想通貨はあり得るが、仮想通貨が
現代の金の機能全体を体現する事はあり得ないと言えるだろう。包含関係として
仮想通貨の方が機能性が小さいのである。

つまり「仮想通貨には信用創造がない」事が最大のネックである。

現在、取引が過熱しているが、その実態を比喩で考えてみよう。
例えば、芸術家の絵がある。芸術家が歳をとってゆくと、作品数が減り、
将来的には死んでしまうため、作品の制作が終わるとしよう。彼の絵は、
最終的に2100万点あるとしよう。

この時、絵を欲しいという人が現れるとする。はじめは物好きだけが絵を買った。
だが、次第に欲しいという人が増えてゆく。すると、どこかで相が転移して、
指数関数的に値段があがってゆく。あまりに作品点数が多いので、この作品の
やり取りをもって、金の代わりをする人が現れる。作品1つで、車一台と
交換するようなものだ。

多くの人がこの作品を欲しがっている時は、このような交換が成り立つ。
だが、みんなが欲しがらなくなると、価格は崩壊する事だろう。誰もが
欲しがる時のみ、金として機能するのである。

誰かが、作品を借金させてくれと言ってきたとする。現物がある人は
作品を返すための念書を書いて、貸してくれるかもしれない。だが、
利子をつけて返すにはどうしたらいいのだろう?作品の値上がりをもって、
作品で作品を買う??作品1つで、作品を2つ得る事が可能でなければ、
利子は得られないだろう。

これが仮想通貨ビットコインが金の代替にならない理由である。
有限な金のようなものは、リアルマネーの性質をイミテーション出来ないのだ。

もちろん、考え方をかえる事も出来る。リアルマネーの方が異常という
認識において、仮想通貨の性質をもって金とする方法である。

よく考えてみれば、なぜリアルマネーは利子がとれるのか。なぜ100円で
200円を買う事が可能なのか。ここのカネの矛盾がある。つまり信用創造
いや、債券創造があるのだ。

銀行は金を創る。本来は手元にない金を貸す能力を国から担保されている。
もしくは、その詐欺を見逃すように国と交渉しているともいえる。だから、
誰かが住宅ローンを組みたいとして、そこに返済の能力をみこめば、金を
貸すことになる。なぜなら、金を創ればいいのだから。これは公然と知られた
事実である。

もし私が、手元に何もなくても、誰かに100億円貸せるとしたら?
そんな馬鹿な!と誰しもがいうだろう。だが、銀行はそれをしている。
事実、それをしているのである。誰かが借金をすれば、その分金が増える。
だから、利子を払えるのである。これがリアルマネーの本質である。単に
決済出来ることが金の存在目的ではないのだ。

仮想通貨が、そのまま仮想なのは、この信用創造による金の膨張が存在しないからだ。
むろん、ビットコインを始めた人間はそんなこと百も承知だろう。
そして、現代のリアルマネーの特徴に異を唱えているのかもしれない。

さてさて、投機的な金がビットコインに流れている。まだまだその交換価値は
増加する事だろう。だが、仮想通貨が決済にだけ用いられるとしたら、
リアルマネーにとって代わられることはない。むしろ共存関係になることだろう。
大口の取引で、世界をまたぐときの決済などに積極的に使われるかもしれない。

逆に、ビットコインに使われているブロックチェーンの方式は、もっと
人々の生活に食い込むに違いない。私が可能性を感じているのは、地域通貨
としての仮想通貨である。シルビオ・ゲゼルの減価する貨幣としての利用である。

ブロックチェーンを地域通貨として利用する事で、自動的に減価出来る。
そして、発行数も管理できる。このようなブロックチェーンを用いた地域通貨
パッケージを市町村に提供できれば、かなり有効な景気刺激策になるだろう。

加えてもっといえば、個人通貨の可能性もある。誰かの労働をコインに変換し、
市場で交換するのだ。正確には逆で、個人の労働価値を個人の通貨で表すと
いうこと。例えば1鈴木が、パン一つ。でも、人によって労働価値が異なれば、
2田中がパン一つかもしれない。個人の信用をはかる手段としての通貨も
あり得る。この類似系はVALUというサービスとしてもう存在しており、
いずれ表舞台に現れるのかもしれない。

いずれにせよ、21世紀では通貨の概念は拡張してゆくことは間違えない。
その時、現在の仮想通貨がそのまま利用されているとは考えにくいだろう。
拡張された形に変形していると私は予測する。

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バーフバリとキリスト教 [思考・志向・試行]

大澤先生の講演を聞いた。その本題は「悲劇と喜劇」であった。

ここではこの講義内容を踏まえた上で、
悲劇としての「バーフバリ」を取り上げたい。

下記、ネタバレを含むので注意されたい。

バーフバリとは、今話題のボリウッド映画である。
「伝説誕生」「王の凱旋」の前後2作となっている。
内容は、親子3代にわたる伝説話という形式で、主には親である
バーフバリの悲劇伝説とバーフバリの子が行う王権回復のカタルシスの話だ。

おそらく多くの人は、「流石ボリウッド!!」という感じで
勧善懲悪の伝説物語として面白おかしく観たはずである。
全編にわたって、格闘が多いので、アクションに少々食傷するかもしれない。
だが、その部分を含めても、内容は劇的に演出され、色々と物理現象を
捻じ曲げた表現が満載な実に爽快なインド映画となっている。

CGを多用した過剰表現など、それはそれ、物語の中身は実に王道である。
その王道さをキリストの生誕の物語との類似として眺めたい。

悲劇である物語には、3つの要素が必要である。
これを述べたのはかのアリストテレスである。

1.苦難(不条理な出来事)
2.逆転(ポジティブからネガティブ)
3.認知(運命を知る)

これらを含むことで悲劇は構成される。そして悲劇であるほどに、
物語を聞いた我々には不可解な勇気がもたらされる。この誘発される勇気こそ
悲劇の効能であり、人々を魅了するものだ。

きっとバーフバリを観た人々は不可思議と勇気を得たはずである。
不条理な仕打ちに、徳と正義で立ち向かう主人公バーフバリ。その姿に
強く心動かされるはずだ。なぜなら、それが神話の構成であり、人の本姓に
訴えるからである。それは主人公が人間離れした能力を持つという事ではない。
その能力をどう使うかという点において、人の心をつかむのだ。

バーフバリはまさに、上記の3つの要素をがっちりと取り入れている。
そして、オイディプス王の悲劇とは異なり、王の復活というカタルシスで
終えるという形式によって、集客を狙った”あざとい”構成となっている。
(これは「君の名は」と同じチューニングである。)

バーフバリの苦難とは、母同然のシヴァガミ国母によって殺されるという
点で頂点に達する。そして異母兄弟の計略であることが明らかになる。
異母兄弟にとって、バーフの存在はまさに目の上のたんこぶであった。その
兄弟に向けられた憎しみによる計略が見事に、バーフバリを討ち果たす。
この悲劇が、悲劇であるのは、バーフバリの行動は母の教えから来るもので
あり、その教えに忠実であるがゆえに引き起こされる事だ。翻って、その
徳のある行動によって、バーフバリは王としての器として人々に慕われるのだ。

民衆とは、実は正義を体現するシンボルを求めている。それがめったに現れない
幻想であるのだが、それこそ、神話だからこそ、存在し得る存在としての英雄
を王としたいという心情があり、人はそのような人に傅きたいのである。
戦士カッパッタはそれをまさに体現した人である。

徳がゆえに味方に殺されてしまったバーフバリ。その回復を息子である
バーフバリが復讐を果たすというのが後半の見せ場である。個人的には、
最後の数分はかなりの蛇足だった気がするが、それこそがこの映画のヒットの
所以である。どこにも存在しない正義を体現する出来事だからだ。

逆転は、まさにバーフバリという祝福された王子が王になると定まった時から
スタートする。異母兄弟からの妬みによる計略に国母は巻き込まれてゆく。
まさに、ポジティブからネガティブへと物語は進んでゆく。クライマックスは、
何の謂れもないバーフバリがまさに国母の意思によって殺される事で完結する。

認知とは、二つの視点の交差点の事だ。神による運命と、それを知らずに行動する
主人公。子バーフバリは、自己を知らずに母を救い出す。そして、それを事後的に
知らされるのだ。自分が王家の血筋のものであること、その存在により母が救われる
と予感されていた事をまさに体現する。認知を経たバーフバリは復讐へと向かうのだ。

つまり、この物語はアリストテレスが定義した3つの条件を見事に
包含するのである。そして、その悲劇性こそが観た人々に健全な勇気を与える。
不思議であるが、徳のある主人公がいわれなき迫害を受けるという図式こそ、
人々は精神的な力を得る物語なのだ。だからこそ、バーフバリは健全な開放を
もたらす。それを現代の技術とインド映画のもつ演出で見せるのだ。ヒット
しないわけがない。

キリスト教の物語も、同様の型を持つ。まさに悲劇である。そして、その悲劇は
キリストの愛をまさに最大化した。悲劇がもたらす勇気はここにもある。

人がもつ不思議な心の理論。神経科学的なせこい心の理論ではない。
ここでいう心の理論とは、人は不合理に直面した時に、人に宿る不思議な力の
事である。人という動物には、悲劇を受容する装置が埋め込まれている。
このようなストーリーは、遺伝子や神経細胞の活動などで説明するものではない。
むしろ、人の精神のロジックとして語るべきなのだ。

悲劇の効能をぜひ堪能していただきたい。「バーフバリ」を観てない方は
映画館に急いで頂きたいのである。百聞は一見に如かずである。
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不安感の中で [思考・志向・試行]

一体何を求めていたのか。今、不安のただなかにいる。
もちろん、すぐに終わりが来るわけじゃない。だからこそ、大きな決断をした。
これで良かったのか。その不安は昨年も同様だった。結局、その不安感を半年も
引きずりながら生活してしまった。

結局、問題を先送りにし、目の前の仕事に逃避していた。
そしてどこか逃げたくなるような気分でいっぱいだった。現に何度も現実逃避に
出かけた。だが、気分が晴れるものではなかった。むしろ、なぜ自分が求めるものを
真に求めようとしないのか。自分でも分からなかった。

常に自分の在り様を求めて悩み続けた。だから休日でも、気が休まることなく、
考え続けた。周りからみたら、なんて無駄な事と思ったことだろう。どこか収まり
きらない気分が楽しみを奪っていった。友人と会う事も気が重かったのだ。

自分の気分の不安定さは、結局、自分が「自由に求めた」ものを実行していないから
だった。それは金銭的な過多とは無関係な事。でも、どこかしょうもないプライドが
疼いて、捨てられなかった。そして微妙に変化する関係性。人間とは不思議なもので
嫌だと思っていても、少しずつ馴染むものだ。半年以上経って、ようやく居場所の
ようなものが生まれてきた。そうか、人間関係は半年以上はかかるものなんだ。

もちろん、意識した。意識して言動を発してみた。今まで散々偉そうなことを
ここで述べてきた。ならば実行するほかない。自己愛ではなく、自愛を軸にした
健全なコミュニケーション。一人一人に対して可能な限りにおいて丁寧に接した。
きっと、何か伝わっているみたいだ。相手が変わることを期待して、そして自分が
変わることを期待して。

だが、一貫して違和感があった。その違和感がなんなのか。そうそれが遂に
理解できた。今日、発見したのだ。何をもって嫌だと思っているのかを。
それは、「条件付きの承認」の事だ。子供の頃、漠然と感じていたあの感じ。
それを繰り返そうとしていたのだ。いい子でなければいけない。人格の一部のみ
を評価し、そこだけ切り取って全人格性を決めつけてくる。それ以外の部分は
押し込められてしまう。そういうコミュニケーションだ。

親はそういう形で子供に明に暗にいい子でいることを強要する。好きな事を
して良いと言いながら、要求にかなう叶う形以外は認めないという命令。
暗黙裡に送られるメッセージだからこそ、たちが悪いのである。そして、それを
無視するわけにはいかないのである。そうだ、この関係性こそ、今の置かれている
状況をよく表している。

まさか、こんな関係性を仕事において利用されるとは思わなかった。
希望を述べよと言いながら、その反対方向で、彼の願いにかなうものを言う
しかないという矛盾するメッセージ。口と態度の間に乖離が見え隠れする。
それがマイルドであるから、一見するとまともに見える。だが、明示化されない
事は問題を水面下に押し込めてしまう。そして、徐々に腐ってゆくのだ。

自分がそのような関係性によって生きてきた事をうっかりしていた。そして、
そのような関係性にひっかかる心性を持つがゆえに、そういう相手を無意識に
選びとってしまう。そのような相手の命令に逆らえない。つまりハラスメント
関係である。そうか、所属した時から感じていた借りてきた猫のような人々の
雰囲気は、そういう関係性に共依存する人々の群れだったからだ。

だが、知ってしまったのだ。自分はそのようなシステムに生きられない。
なぜなら、悟ったのだから。人の在り様はそういう仕組みでは不健全にしか
機能しない。そんなチームが創造的であるはずがない。

それを身体反応として知っていた。そう、一年前に。なぜあそこまで身体が
拒否したのか。それを無理やり抑え込んだ。違う。これは違うというあの感覚。
きっとマリッジブルーなどと同じだろう。人は一時の事という。そして、
外から見れば、それは羨ましがられる状況であれ、非難される事はない。
だが、それに精神・身体が蝕まれる。

「努めて仕事に励め、そして成果をだせ」そういうもの以外は認めない。
これが命題である。これは結局「努めて勉強に励め、そして合格しろ」と
まるで相似形である。なんだ、そういう風に操られたに過ぎないじゃないか。
もちろん、その結果として対価の給料をもらう。社会的補償をもらう。
そして自分を騙す。まあ、そこそこ貰えてるのだからと。実は、自己嫌悪に
よって支配されているのだが、それは休日に散財で発散である。

きっと、高額な給料をもらえばもらうほど、その状況が上記のようなハラスメント
状態にあったとしても、動けなくなるのだろう。十分な対価を不快な気分と
交換し続ける他ない。だが、そんな人間のどこが魅力的だろうか?
日本の多くの企業には、努力して成果を出すという命題以外の行為を認めない
ハラッサーが沢山いるし、その洗礼を受けた人は、自分が仕掛ける側になって
しまうのだ。

努力不足を責める人間は気を付けた方がいい。いや、そもそも努力不足という
概念自体が成り立たないのだ。そんなものこの世にはない。人は生きるための
十分な能力を持ち、十分な活動を行っているはずなのだ。健全に生きていれば。
そこに努力という圧は必要ない。あらゆる動物たちは努力などしないのだ。
ではなぜ、努力があるのか。それはプライドなのだろう。他者より優れている
と思いたいという。そして、利益を確保する動機でもある。それが現代社会に
おけるルールだからだ。もちろん、努力しても報われるかは分からないし、
努力しなくても益を得る事がある。人生とはそういうものだ。つまり、日常の
充実こそが人生であって、目的の達成のために犠牲にする時間などないのだ。

この仕組みがわかった今、所属し続ける事に困難が生じた。だが、半年で
ようやく居場所が出来てきた。迷いが続いた。もうしばらく大丈夫なのでは
ないかと。逡巡した。ずっと。人はきっかけがないと決断できないものなのだ。
のんべんだらりとした時間の流れの中で、意思決定など出来るはずもない。

「やって後悔する事とやらずに後悔する事」どちらにしても、後悔するならば、
行動すべきではないか。これが今回の答えだ。きっと後悔するだろう。どこかで。
でも、行動したのだ。それだけは間違えない。もしこの決断が間違えなら、それを
後続に伝えなければならない。それによってこの失敗は成功を生み出すのだから。
私はそのような連鎖を信じる事にした。


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絶望的な日本の生活 [思考・志向・試行]

日本では、パターナリズムが跋扈し、その一方で、あらゆる責任逃れのための
努力が行われている。その本質は、決して社会を良くしようと考えての行動ではない。
むしろ、自分が如何に損しないかを勘案しての行動である。

万事が万事そんな風だから、責任のある行動がどんなものか分からなくなってしまった。
責任を取ると言って、大企業の役員や経営者が不正などによって辞任する。これは、
むしろ責任の放棄であって、責任をとっているわけではない。権力があるものは常に、
責任を負わなければならないのだが、この国では責任など取りようがないのである。

そうすると、人々は自分のところにしわ寄せが来ないようにと行動する。
それは雇われ経営者でも同じ事。自分の任期中に何もなく過ごせれば良いのだ。
すると、とにかく形を作りたがる。形式的であっても、何かアリバイがあればいい。
これが強いインセンティブとなり、業績づくりが行われることになる。数字を
いじったり、時にねつ造したり。要は微細な嘘をついて場を取り繕うわけだ。

こうして社会では、とにかく見かけにこだわる人々が増え続ける。
内実は置いといて、書類・プレゼン・広告とにかく見た目が良いものばかり
もてはやされる。そして本質的な問題は見て見ぬふりをする。なぜなら、それを
解決しようものならば、内部的には「面倒な事」をする人と思われるだけでなく、
恰も、その問題を作り出した人のように見られてしまうからだ。

これが会社だけでなく社会全体に反映され、一億層無責任時代が長く続いた。
その結果、あらゆる場面で不正があったのだが、それが見つからずに伝統化して
しまったのである。前任者の不正は、後任者にとっての通常になる。後者は
不幸にして、業務とはそういうものだと学んでしまうのだ。

昨今の不正ブームは要は、発覚である。今までやってきてた事をおかしいと
いう人間が増えたというわけだ。それはそれで正常なのだけど、次から次に
出てくる不正・虚偽。あまりにも不誠実であろう。

現政権のへたくそなやり方もまさに責任逃れで出来ている。嘘ばかりいう事が
バレバレであるが、それを否認し無かったかのように振る舞う。精神的に
異常なのであるが、それすら誰も指摘しない。なぜなら周りもおかしいから
なのだが、それも誰も指摘しない。なぜだ??

それこそが責任逃れシステムへの適応の結果である。指摘したら、自分の立場が
危ういとしたら、誰が指摘するものか。指摘しない上に、指摘出来ないのである。
それを続けている内に、何がおかしいのか分からなくなる。もはや末期なのだ。

この責任逃れシステムは、現代社会の一側面である。これは社会学的にみれば、
シェフ氏の指摘する「嗜癖システム」であろうし、安富氏が指摘する「立場主義」
であろう。社会が正義とみなす思想と、それに呼応する社会活動がある。現に
行われている社会活動は人を幸せにしない。むしろ、何かに没頭させることで、
全体を隠ぺいし、それに依存する事で精神の安定を保とうとする。倒錯した
システムなのだ。

会社での矛盾を孕む活動を無理やり肯定するために精神疲労を伴う会社員は、
そのストレスを精神的・身体的病気として表出する。そこまでいかないように、
酒・たばこ・カフェインがある。朝起きられないために、コーヒーを飲み、
昼間辛くなってきたら、タバコをやり、仕事が終わっても気分が晴れないから、
それを忘れるために酒を飲む。まさに労働者のお手本であろう。そこまでして、
何を体現しているのか?

金を稼いでいるだって?そのためのサービスを生み出しているだって?そうか?
あなたの書類は会社のためであって、顧客のためではない。あなたの労働の大半は
組織の運営のためではないか?それをビジネスだと声にだして言えるのか?

本来、経済活動とは人にとって必要なものを得るための行為である。それは、
生産者であり消費者であるということ。大抵の労働は誰かのためにある。
それがなぜか、組織のための仕事になり、組織維持のための行為に成り下がった。
この時、人は労働に意味を見出せなくなる。そしてそのような労働には責任など
とりたくないのだ。要は、やる価値もない仕事なのだが、そういうものに限って
高給取りなのである。

このような仕事をこなす男たちは要するに仕事に嗜癖しているのである。
仕事をしてさえいれば、免罪されるかのように。そうしてますます仕事にアディクト
するのだ。この仕事癖を社会では「良き社会人」と呼ぶのである。仕事中毒は、
社会が認める中毒なのである。

一方こういう旦那を持つ妻は、この旦那に対応して依存して生きる。それは
中毒者の世話人という事になる。本来、伴侶は中毒を是正しなければならない。
だが、この仕事への嗜癖は日本社会が許容するがために、異常とはみなされず、
むしろ、積極的に採用される思考状態となる。すると、伴侶は共犯者になる。
つまり共依存である。

アルコール依存者の家族は、一見被害者に見える。だが、その内実は、私がいない
とこの人はダメになるという無自覚的な依存があるのだ。つまり、家族がアルコール
依存者である事を望んでいるのだ。歪んでいるが自分の存在を肯定してくれるのが
中毒者の家族なのだ。

これを仕事と置き換えてみる。まるで、日本の良き家庭に見えてこないか。
仕事に勤しむ旦那と、それを生活面からサポートする妻の図式は、アルコール依存
者のいる家族と極めて類似する。つまり、日本社会において良き家庭とは、
仕事中毒者の保存に努めている事と同義なのである。これは社会全体がそのような
エートスに包まれている事を意味する。ならば、もう日本全体が中毒患者となる。
終わったな日本。そう考えるのが普通だろう。

ではなぜ、仕事への嗜癖が収まらないか。それは「立場主義」だからだ。
立場主義とは、現代日本では何らかのポジションを得る必要がある事を意味する。
正社員という立場、資本家という立場、学校での立場、専業主婦という立場、
とにかくなんらかの社会的に肯定された立場に身を置くことが求められている。

このような状況下で、立場から外れると大抵痛い生活が待っている。
それがために、立場を失わないようにと行動する事になる。そして良い立場を
得ようとする。だから受験戦争があるし、大企業へ勤めようとする。それは
良い立場=幸せという信念が流布されているからだ。その背後に拝金主義が
あるのは間違えない。金を多く得るほど、幸せなのだと思っているのだ。

そして、立場を守るためなら、何でもする。それが仕事への嗜癖につながるのだ。
加えて、責任逃れシステムを構築するのである。

このような嗜癖まみれの人々で構成された社会が果たしてうまくいくのか?
否。遅かれ早かれダメになるに決まっているだろう。ならば、我々は先回り
して、立場主義から脱却し、仕事への嗜癖もやめ、共依存的家庭を再構築
しなければならないのだ。

そのための第一歩は、ひとまず自覚する事だろう。
自分の行動は一体何のためかと。


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Yahooニュースの危険性 [雑学]

正直な所、ヤフーニュースに危険を感じている。
純粋にまずは、ニュースに娯楽が多すぎる。
http://beinspiredglobal.com/japanese-yahoo

本当なのかは分からないが実感として、確かにエンタメが多い。
いや多すぎるだろう。はっきりいってどうでも良い内容である。

次に、多くの人がニュースをヤフーから摂取している事だ。

これは由々しき事態である。なぜなら、内容がいい加減だからだ。
https://teisei.info/archives/949

この二つによって恐ろしい事が起こっている事がわかる。
ニュースの信憑性が薄い内容にもかかわらず、多くの人がその内容を共有する
事で、内容に信憑性が加わってしまうという事だ。

中身が間違っていても自分が知っている知識が、他者によって裏打ちされると
みんなそれが最もだと認識してしまうのである。

これによって、多くの問題が発生する。一見、ただの一社によるニュースの
取捨選択が、世論形成に大きく影響を与えているといえるからだ。そして、
往々にして、そのニュースには異常性がある。

とりわけ、危険と思うのは、批判性のない記事である。名指しするならば、
産経新聞や読売新聞は危ない。この危険性とは、人々を争いに誘うことを
主としている内容を指す。

北朝鮮や韓国、中国などの記事をこれらの新聞社の報道で見るとき、
内容は常に敵対的である。これが意味するところは何か?人を争いに誘導する
事であろう。少なくとも、敵を形成する事に役立つ。

人は普通に暮らしている限りにおいて、わざわざ敵を生み出さなくてもいい。
通常、直接的な害があるとき、人はそれを敵とみなす。これは生物にとっての
基本的な概念だ。よく犬とタヌキは天敵であるといわれるが、これも事後的な
関わり合いの中で、争いを生じるがゆえに敵となる。多くの哺乳類は「事後的」
に敵を生み出す。野良犬は人から危害を加えられてせいで、人を敵とみなす
のである。

だが、ヒトには言葉があり、想像力がある。誰かが誰かを敵と名指しする時、
とりわけ、「味方」が誰かを敵と名指しするとき、その対象を一緒に敵と
認定してしまう。これは個人レベルでも、集団レベルでも同じ事だ。個人レベル
であれば、いじめとなり、集団レベルなら、敵国の形成となる。

勿論、このような認識が生物としての生存戦略であったが、現代では時に
不要な争いを生み出すきっかけに成り得る。

あなたは産経新聞がのたまう北朝鮮の脅威を真に受けている事だろう。
その内実をあなたはどこまで知っているのか?あの報道が何を意味するのか
真剣に考えたことはあるだろうか?誰かが誰かを敵と名指しする時、我々は
一番注意する必要がある。

あなたは北朝鮮や中国に行ったことはあるか?彼らの誰かと直接かかわった事
はあるだろうか?ないならば、なぜ彼らを敵と見なせるのか?あるならば、
どんな理由で敵と考えるのか?実直にいえば、直接的な理由もなしに、敵と
みなせるあなた方の方が、よっぽど脅威であり、私の敵である。危険思想を持つ
人々である。

もう少し言わせてもらう。ナチスドイツでは、ユダヤ人は迫害対象であった。
では、果たしてすべてのドイツ人がユダヤ人から害を受けていただろうか?
否。小さな個別的な対立はあっただろう。だが、そんな関係性はどんな所にも
存在する。では、なぜドイツ人の特に暴力集団において、ユダヤ迫害が肯定
されたのだろうか?それは誰かが誰かを敵と名指ししたという事に過ぎない。

ナチス党がユダヤを敵と見なしただけに過ぎない。だが、それが公然と当たり前
として流布した。おそらく常識的にこんな事を真剣に受け止めたのは、全体から
言えば、少数の人々であったろう。だが、暴力を背景とした思想性は、抗う事に
躊躇する。抗う事が非常に困難である。いやほとんど不可能と言えるだろう。
それが歴史が教える事実である。つまり、あなたがユダヤ迫害をする人である。
断定してしよう、あなたは他人にそそのかされることで、いとも簡単にユダヤ
迫害を実行する事だろう。これが、誰かが誰かを名指しする事の怖さである。

翻って、今の日本はどうか?あなたは北朝鮮に脅威を感じているだろうか。
その理由は何か?現実に何か起こったのか?何もない。現時点では、何もない。
では、なぜあなたは彼らを脅威とみなすのか。ミサイルを撃ってきているから
だと?あなたは言いたいだろう。では、そのミサイルを撃っているのは誰だ?

それは政権の意図であり、ごく一部の人間の所業であろう。つまりせいぜい
数千人の行動である。彼らの所業を持って、北朝鮮という名に敵とラベル
するのは異常ではないか。

我々にも同じことが言える。安倍晋三を掲げた現政権の行動そのものを他国は
”日本”と見なす。現政権が行った行為は、日本の行為として映る。核兵器禁止
条約を批准しない日本は、世界に対してアメリカ属国をアピールした。つまり、
アメリカの功罪を批判する気がないという事である。そして、集団的自衛権の
行使といいながら、他国への先制攻撃を可能としようとする行為。これも、
諸国から見れば、好戦的にみえるだろう。彼らは、我々を名指しして、敵と
呼ぶかもしれない。これのどこが不思議だろうか?

大抵の人々は、ごく平和な人々である。その人々が争いを求めるのはなぜか。
ほとんど理解不能に思われる。少なくとも理性的な観点からいえば、北朝鮮
だからといって、憎悪を募らせるのは、意味不明である。憎むべきは好戦的で
秩序を壊そうとしている人々であって、国やその国民ではない。つまり争いを
仕掛けようというごく一部の人間を非難するべきであって、その全体ではない。

こんな当たり前を誰も理解しない。申し訳ないが、誰も理解しないと断言できる。
少なくとも私の周りの人間は、こんな簡単な事を理解できなかった。それほどに
誰かが誰かを名指しする事の恐ろしさがある。人は簡単に「騙される」のである。

今、ユダヤ迫害にあなたは与しますか?と問うたら、何を馬鹿な事をというだろう。
では、今、北朝鮮への敵対心にあなたは与しますか?と問うたら、なぜ、馬鹿な
事をと言わないのか?まるで同じ事ではないか。

個人的に北朝鮮や中国の人と話をすれば、そこに敵意があるはずもない。
集団になると、常に敵意をまとう。我々、人類は愚昧にも、それが理解できない。
理解できるほど頭が良くない。それが歴史が教える事実である。常に、争いを
求める人間たちがいて、残りの大衆は彼らの意向に簡単に欺かれる。これは
どれほど強調しても、足りないくらいだ。いいですか、あなたが欺かれるんですよ。
そして、現にすでに、現在進行形で欺かれているわけです。Jアラートで頭を
抱えたあなたははっきりいって「いかれてますよ」。

平和とは、努力であって、無為ではない。こんなことも理解できないのが日本人
である。争いを最小限にとどめようというのが知恵であって、争いを煽る言動
は全て、異常な言動と言えるだろう。繰り返します。争いを煽る言動はすべからく
異常であると。

分かって貰えない事は百も承知である。だからこそ、ここに記すのである。
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沈黙ー遠藤周作ー [雑学]

沈黙を読む。下記、ネタバレを含むので注意。





ロドリゴと呼ばれ、転びのポウロと呼ばれた男の物語である。
史実にある出来事を遠藤周作の手により、神とは何かを探る物語になった。

丁寧に描写された景色と、主人公の心理描写は、キリスト教者であった遠藤の
心理そのものなのだろう。神は苦しい時に何をしてくれるのか。なぜ神を信仰する
事がこのような苦しみをもたらすのかと問い続ける。

ポルトガルから来た宣教師は、その師といえるフェレイラという宣教師を目標に
日本に来た。どこかで彼に会えるのではないか。そう信じていた。

隠れキリシタンの村人たちに出迎えられた彼らは村人たちに匿われながら
ミサを始めた。そういう暮らしの中で、日本にキリスト教の根を広がっている事に
気がつく。弾圧はあるものの、キリスト教の教えが彼らの苦しい暮らしを有意義にする
解釈を与えるのであった。

所が、ある日異変が起こる。場所を変え、逃げるのだが、キチジローという男の
裏切りによって、奉行所に捉えられてしまう。そこからロドリゴは捕まったキリシタンが
拷問にかけられ、殺されてゆく様を見聞きする事になる。

なぜ、神はこのような仕打ちに対して沈黙を続けるのか。
キリスト教を信仰するがゆえに、キリシタンは業苦に立ち向かい、その生命を落としてゆく。
なぜそのような事が肯定されるのか。

井上と呼ばれた奉行は、元キリシタンであった。彼はキリシタンの心理を理解しており、
禁断のキリシタンをあぶり出しては、転ばせる才をもった男だった。そう、この男こそ、
ロドリゴが師事したフェレイラを「転ばせた」男だった。

ロドリゴは、日本人キリシタンを人質に取られる。ロドリゴがキリスト教を手放せば、
目の前の拷問されたキリシタンを開放するという。そう脅されて、ロドリゴは苦しむ。
自分が神のために頑張るほどに、隠れキリシタンが殺されてゆく。そして、彼らが「転ぶ」
と希望しても、ロドリゴが転ばなければ、開放されないという状況に置かれてしまう。

ロドリゴは問う。神はなぜかくも厳しい試練を与えるのかと。
ロドリゴは最終的に「転ぶ」。そして悟るのである。沈黙こそ神の意志であったと。

キリスト信者が、その信仰を捨て去ることで、神の意志を見出すという矛盾。
いや、それこそが神が望んだことであると見なすのか。もっとも神聖な行為が、
ロドリゴに信仰を捨てさせたということになる。

沈黙する神。神は存在しないのか。いやそうではない、むしろ神の沈黙こそ、神の
存在なのだと志向するのである。奇跡を呼ぶのが神ではないのだ。入り組んだ思想性である。

日本人には、ご利益があるかどうかが問題になる。その普遍性など仮定してこなかった。
なぜなら、神は気まぐれであり、時に嵐を呼び、人々を困らせるというのが日本における
神の原型だからだ。それは日本が火山国であり、地震国であることとも関係するのであろう。

そんな日本人が隠れキリシタンになるほど、日本の統治者は民に圧政を強いたのだ。
このような弾圧にこそ、キリスト教は思想的超克を与える。弱者の論理がキリスト教なのだ。

一神教ではない文化圏の我々にとって、圧政に対する強さを与えるキリシタンは脅威だった
のだろう。施政者にとって、思想的反抗こそがもっとも嫌うべきものである。一向一揆に
しても島原の乱にしても、圧政に耐えうるものがシンボルの元に集う時、大きな力を生む。
とりわけ、死を恐れない集団こそ、最大の強さを持つ。人はそういう思想性を取り込む事が
出来るのだ。

動物とは異なり、人は思想に死ぬことが出来る。大きすぎる脳。思想に死ぬとは極端に
人間的なのかもしれない。

転んだロドリゴは、多分に人間的であった。たとえそれが信仰を捨て去ることだとしても。
信仰を貫く事と目の前の非人道性を回避することの葛藤。これがまざまざと描かれたのが
この「沈黙」である。

我々にとって信仰とは何かを再度考えさせてくれる小説だと思う。
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いっその事ーウソならばー [思考・志向・試行]

なるほど、ウソが人生なのだとしたら、いっその事、ウソを存分に生きる方法もある。
自分をもっともらしく装い、派手な所に顔をだし、リア充を求めて行動する。

いや何、そんなに眉間にシワを寄せなくても大丈夫。明日は明日の風が吹く。
それならば、今日は遊んで暮らそうじゃないか。それで何が問題というのか。
そういうものが人生なのかもしれない。

そういう風に決めてしまえば、自分が持っている感情がたとえウソでも、くだらない
現実よりも、いささかでもマシではないか。ウソ写真でも、インスタ映えする方が
惨めな写真よりもずっといい。

日本はもう傾いた。ならば、本当の崩壊がやってくるまで遊ばなければ損じゃないか?
苦労して金を稼いで、マトモな家庭を築こうとする努力をするだけ無駄じゃないか?
自分がやっていることが虚飾だとしても、稼げるなら、いまのうちに稼いで贅沢すればいいじゃないか?

なるほど、ウソならば、いっその事、派手に生きればいい。
そういう力のかけ方もあるのかもしれない。刹那的でも、楽しければいいじゃないか。
今の若者はこっちがメインなのだろう。でなければ、どうして生きていられようか。

市中の人々にとって、社会システムの事など、どうでも良く、
(実際にはものすごく振り回されているのだけど、)
ズルく賢く生きるだけなのかもしれない。

考え方次第で、どちらでもいい気がしてきた。ウソだろうがなんだろうが、
体裁を整えていれば、それで満足なんだと生きる手段。たぶん、これが多くの人の心象なのだ。
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ウソーその効用と功罪ー

ウソを一方的に否定することは出来ない。
むしろ、ウソによって救われる事だってある。そして、真実から目をそむける事で、
なんとか生きて行ける場合もある。だが、本質的にウソをつかねばならない状態事態を
変更すべきだと思う。

ウソも方便とはよく言ったものだ。ウソは生物が用いる高等戦術でもある。
擬態などはその一例だ。毒がある生物の外観を真似ることで、自己の生存率を増加させるわけだ。
同様に、人間においてウソは生存率を増加させることがある。ガンであることを隠蔽することで
実際以上に長生きすることもあるだろう。また、宗教において「大丈夫」という言葉に救われること
もある。そういうウソは人生において有効といえるだろう。

ウソによって人は大脳を大きくしたという話もある。ウソの辻褄を合わせるにはそれなりの
知恵が必要で、その知恵によって利益を得ることがあるわけだ。何も詐欺師だけではない、
多くの企業は広告によって商品を可能な限り素晴らしいものとして宣伝している。これも
一種のウソだろう。ウソといえば、CMにおける家族団らんだ。保険にしても住宅にしても、
これさえあれば、あなたの人生はバラ色だという類のCMはすべてウソである。考えてみれば、
そんなこと直ぐ分かるだろう。

もっと言えば、現実の生活自体がウソで塗り固められている。ウソというのがイヤであれば、
幻想でも、妄想でも、思い込みでもよい。実体とはもっと身も蓋もないものであって、多くの
人が理想的な生活を営めるわけではないのだ。そして、その一見すると平等にみえる状態は、
多くのウソで、幻想化されている。

我々はウソの中を生きる。そういっても過言ではない。そして、そのウソの現状維持にあなたは
加担することになる。なぜなら、ウソを生きることであなたは糧を得ているからだ。もちろん、
ごく少数の人はまっとうな人生を生きる。ウソのない世界を。だが、ほとんどの人はウソを幻想を
生きることになるのが日本人という暮らしである。

よく「大人になる」「おとなになれ」という言い方がある。つまり諦めろという事なのだが、
この言明の背後には、ウソがある。本当は愛情など何もない家族に対して、愛情のあるフリをする
生活。会社での仕事に無意味さを感じているのに、自分は恰も意味があるかのように振る舞う事
で自分の存在性を肯定しようとする生活。それら隠蔽されている事実からウソが零れそうになると、
それを全力で忘れようとする。そのための酒であり、過剰な消費生活であり、控えめなアニメ・
ゲーム生活である。つまりオトナになるとは、ウソを、協同幻想としてのウソを生きることである。
ここではこれを岸田氏になぞらえて「唯嘘論」と呼ぼう。全ては嘘なのだと。

都市に生きるとは、このウソに身を沈める事である。嘘つきから本当は生まれない。嘘つきからは
体のいいウソが生成されるだけだ。だから、嘘つき家庭から生まれた子どもは、残念だが、嘘つき
になる。つまり現代の都市部の日本では、嘘つきが沢山育っている事になる。そうして嘘つきに
よって、社会が構成される。そもそもがウソから出発しているために、誰もウソについて問わない。
むしろ、時に正直ものが現れると、その正直さがウザいと判断される。そう、ウソなんだから、
目くじら立てるなと。幻想を生きる事が人生と吹き込まれた事で、現実を直視しする能力がなく、
絶対的な身体性を失ってしまうのである。こうして、人々は社会システムのロボットになる。

別段全然かまいやしないのだ。ウソに身を固めた人々が人生をつつがなく生きるのであって、
正直者は頭がおかしいと言われる世界である。もはやどちらが本質的か苦慮することすら無い。
正直者は、異常なのであって、嘘つきが正常である。こういうネジレが社会に定着してしまった。
みんながウソをついているのに、なぜお前は正直であろうとするのか?と問われてしまうのだ。

上手なウソを自分につける人が、現代ではうまく人生を進めており、成功者とみなされる。
もちろん、裸の王様だ。だが、その嘘つきたちを崇め、追随するものたちがいる限りにおいて、
そのウソがウソと名指しされることはほとんどないのである。みんなうっすらと気がついている
現実の綻びは、それこそ崩壊するまで否定されることはない。いや、崩壊していても、なお否定
されることはないのだ。なぜなら、それがあまりにも普通だとみなされてしまったからだ。

良い学校に入り、良い会社に入り、良い給料をもらって、良い家族を作り、良い環境を買って
生きる事。これを実現できる人は僅かであって、むしろ特殊例に過ぎない。そしてそれを実現
したからといって本当の意味で幸せかどうかは分からないのだ。外面の維持と内面の充実は
無関係なのだから。

人という猿にとって、必要なのは、良い食べ物と、心地よい寝床と、素敵な仲間である。
他のものは全てオプションにすぎない。それなのに、コンビニ弁当を食べ、35年ローンで
寝床の確保に四苦八苦し、忙しいために友人関係を蔑ろにするのが、先の理想的な生活の
人々である。友人関係などをまともに築けなくなり、レンタルフレンドが商売となる。
SNSで自慢するために、友人を気取り、集合写真をとる。如何にリアルが充実しているかを
アピールするために。友人は人生の友ではなく、自分を飾り立てるための道具になる。
その友人が自分より良い状態であると、その状態に嫉妬し、壊そうとする。そういう風に
生きるよう嘘つきに育ったのだから。本当のリアルを感じる事から逃れることを是とする
ように生きているのだ。

もちろん、一定数まともな人がいる。それは都市部の論理とは隔離されて育ったか、
ウソをつかなくても、関係性を結べる人々がいたということだ。だが、大抵はウソをつかされ、
それで良いのだと肯定されて育つ。ウソを肯定する以外に人生に逃げ道がないのなら、ウソで
もいいから、人生を歩めという事は一つの回答である。

なんだろう、この虚しさは。この虚無感をどうして解消すればいいのか。
我々はその有り様を肯定できるほど、達観できはしない。なぜなら、我々は生き物であって、
論理で構成されているわけではないからだ。生物の有り様は常に、リアルにしか生きられない。

我慢して生きろ。かつての大人ならそういうのだろう。
ウソをついて生きろ。今の大人はこういう。

不健全なのは変わらない。だが、自己の存在を明確に感じる我慢と、自己の存在を無視しようと
するウソでは、大きな違いになる。我慢しているならば、いずれか反乱を起こすことがある。
それはこうであるべきだという力を堆積するからだ。だが、ウソをついていると、現状をまとも
に把握できなくなる。それはひたすらに現状肯定という思考状態を招く。何かおかしいと思っても
それは自分がおかしいのか?と懐疑することになる。

ウソとは、支配者にとってこそ有効であり、被支配者にとっては、自己洗脳のための手段である。
何が悲しくてこんな活動をし続けるのか。そろそろ、目を覚ましたらどうか。

ウソは、どんなに綺麗でも、ウソに過ぎない。ウソを肯定して生きたとして、それは人生を
生きているわけではない。それは本当を生きて惨めになる方がまだマシではないのか。

ウソで塗り固められた生活を、他者と比較して、マシだと思って生きる。それでいいのか。
それでもいいと肯定できるようになることを大人と呼ぶなら、大人とはなんだろう??
答えは無い。誰にも答えられない。ならばこそ、自分の主義が問題となる。

クソのような現実を直視して生きるくらいなら、幻想でもいい素敵なウソを生きる方がマシ。
こんな価値観くそくらえだ。私はそう思う。あなたはどう思うだろうか?

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アベノミクスによろしくー日本経済崩壊中ー [思考・志向・試行]

今まで、散々安倍政権の経済政策を取り上げてきたけれど、
明石氏著の「アベノミクスによろしく」は総まとめとして非常にまとまっていた。

要点はアベノミクスなる経済政策は何も事態を好転させていないという事だ。
GDPの算出法の改変や、それにともなうかさ上げと、過去のデータの改ざん、
こういった事で見かけを整えたのが報道されている事であり、実体を反映していない。
更に、年金の株への投資やETFなどの株式への資金流入は「官製相場」を招き、
実体を不透明させている。加えて、労働者をさらにこき使う政策へと足を踏み入れようと
しているわけで、こういった動きで、一番利を得ているのはもっぱら経団連の経営者
たちだろう。

それなのになぜか労働者である人々が現政権を支持してしまう。
なぜか?要因を考えてみたい。

1.有権者は事実を知らない

2.自分の立場を理解していない

3.自分で考えない

大まかにこんなことなのだろう。
要するに視野が狭く、言われたままに過ごしているのだろう。なぜ労働分配率が
日本は低いのか。なぜ多くの税金を取られているのに我慢するのか。歴史をみれば、
国民にはそれに対する抵抗力をもっているはずだ。だが、自分の生活を守る事が
重大な事として立ちふさがる。そのためには巻かれている方が良いと考えてしまう。

長いものに巻かれている時は実は安心できる。なぜか?みんながそうしているから
だ。だが、みんなが間違えていたらどうするのか?恐らく現状ではみんな間違えて
いる。いや完全に間違えている。だが、そのように思考する事はない。もはや
洗脳を終えてしまっているからだ。そして、その洗脳を超えられる人はほとんど
いないのだ。

既得権益を得たものは、現状維持を望む。彼らは社会的なエリートが多い。
他人を蹴落として、学歴を得て、企業体において立場を確保した人間たちは、
経営者的立場に自分を投影している事だろう。そして自分が万一にも、泥船に
乗っているとは考えないのだろう。いや、彼らは賢い。ときおり、ちらっとは
頭によぎるのだ。このままでは日本は終わると。だが、自分たちを守るために、
ひとまず現状維持を考える事になる。

結局、自分の頭で考える事はしない。それこそが怠慢なのだ。自分の行動が
すべからく、他者の願望に沿って働いているとは全く意識出来ないのだ。
大量の宣伝、大量の広告、社会の洗脳によって、我々は本来性を失っている。
もちろん、それでいい。既得権益からいえば、それでいいのだ。みんながそう
やって生きる事で、自分たちの利益は益々増えるのだから。

現在の安倍政権はおおよそアメリカの傀儡政権と呼べるものだろう。
アメリカの特に軍事系列の意図に巻き込まれている。結果として、日本がアメリカの
属国であることを再度意識する事になる。そのような事態を目の前にしても、
日本国民はいまだに、自分たちは一国の独立国かのような顔をして生きているわけだ。

アベノミクスが行った政策、とりわけ金融政策は今後に大きな問題を残す。
日本は沈没する。問題はどの程度の沈没で済むのかという事であって、もはや
この事は避けられない段階に来た。ましてやその滅びの道を推し進めて問題を
先送りしようという人々が多すぎるのだ。あなた方がせっせと働いて稼いだ金が
一夜にして、紙くずになるかもしれないのにだ。

自分たちを守ろうと、目の前の労働に明け暮れるほど、自分たちの生活をおかしく
する。社会のシステムは個人の努力など簡単に無にするだろう。それをもう少し
真剣に考えた方がいい。いや、本当に考えないとだめなのだ。

ともかくも、「アベノミクスによろしく」これを読んでから安倍政権を支持するか
考えてほしい。その程度の知識なしに、現政権を支持しているのなら、あなたは
間抜けだとしか言いようがない。そして、読んだ上でなお、支持するなら、マゾか
愚昧なのだろう。

手遅れならば、手遅れなりの手段を講じなければならない。誰でもいい、
この記事を読んだ勇気あるものは、生活を真剣に考えてほしい。こう書いて、
通じるのは100人中、数人に過ぎない事は十分に承知の上でいう。社会を、
金儲けの手段の場にしないでいただきたいのだ。それは人生の一部に過ぎない
のだから。
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引き返せない事 [思考・志向・試行]

我々は引き返せない。たとえ、理性で理解していてもだ。

人は問題が生じたときでも、誰も引き返そうとしない。
それは苦痛なのだ。非常な苦痛である。

例えば、戦争。世界情勢上、日本がアメリカに戦争を仕掛けざるを得なかった
のかもしれない。だが、冷静に考えれば、無駄に命を失う事はない。
出来もしない事を出来るとし、出来ることは撤退だったのに、それを実行
することは、自己否定につながるために実行されることはなかった。
末期には、誰しもが負けると分かっていた。ならば、一番被害が少ない形で
終わりにするべきであったろう。だが、人にとってそのような決断は苦痛で
しかない。

一度、物事が動き出すと、正しさよりも損得が重要となる。なぜなら、それで
生活を始める者がいるからだ。すると、止める事が困難になる。将来的にもっと
引き返せない状況になると分かっても、現状がなんとかなっているなら、
その水準を落としてまで状況に対応しようとは考えない。たとえ、その後に
崖から落ちるとしてもだ。

サンクコストとはよく言ったものだ。コンコルドファラシーでも良い。
物事を進めてしまうと、引き返せない。かけた時間と金の分を取り返そうと、
さらなる活動を続けてしまう。その先に破産が見えても。人はそのようなものを
見ないフリが得意だからである。

だが、状況はそれを許さない場合がある。始めてしまった物事が状況にそぐわなく
なり、変更を必要としているとして、速やかに変更できる事は殆どない。だが、
状況が異なれば、始めてしまったことでもやめる必要があるだろう。むしろ、
止めなければ、ますますひどい状況になってしまう事もある。その時、変更する
という決断をすることは限りなく困難である。

組織であれば、一部の人はこのままではいけないと気が付く。
だが、それを口にすると、「何言ってんだ、そんなこと言ったら士気が下がる」
とか、「すぐにはどうこうならないのだから、ひとまず大丈夫だろ」などと
言われる。つまり問題視されないのである。とりわけ現場においてこれでいいのか
と思われることは、結局、知りたくない情報として扱われ、問題放置がなされる。

それでも何とかなる場合もある。だが、時に、まさにそれが大問題を引き起こす
原因となる。多くの場合、この失敗は組織の失敗である。現場において発見される
問題点は可能な限り小さなうちに対処するべきなのだ。たとえそれで損をしようとも。
なぜなら、それを放置する事で受ける損害は限りなく大きく取り返しがつかない
事が多いからだ。例えば原発事故。原発がなんらかの形で制御できなくなれば、
放射能拡散という悲劇を招く。ならば、制御するシステムを構築する他ないが、
その制御が崩れ去った時、引き起こされる大惨事をみて、そのリスクが許容される
のかを考える必要がある。そして、フクシマ後の今、もはや原発維持に大義はない。
だが、推進中の人間たちは決してやめようとはしない。そんな勇気はないからだ。

日産の検査問題や、神戸製鋼の問題、東芝の粉飾決済問題、大きな組織は現場の
問題を軽視してしまう。正確にいえば、現場における問題は、直属の上司のミス
になる。それを更に上司が評価するならば、問題点は隠ぺいされる。つまり、
そもそも、問題点を明らかにするというインセンティブ、内的動機付けは決して
なされない。ましてや、業績を悪化させるような事実確認など共有されることは
あり得ない。だが、それこそが、組織をダメにする。

人体で考えよう。もし手に棘が刺さったら、痛いと感じるはずだ。それは間違え
ない。ものすごく小さくても棘は痛さを引き起こす。そして人体はそれを確実に
中枢に伝える。それは問題が拡大する可能性がある現象だからだ。化膿したり
毒素が入ったりと、様々な可能性がある。それは気づくべき現象である。だから
こそ、一瞬にして痛みが走り、対処を促す。そうして人体が守られる。痛いと
身体が感じたという事は、その対処を必要としている事と同義なのだ。

だが、組織における現場の痛みは中枢に届かない。そのような伝達経路を完全に
断っている。そうしてある日気が付いたら、片腕を切らなければならないほど
壊死しているのだ。そのあとでなぜだ?と叫ぶ。簡単である。現場の失敗や問題
を、その上司の責任するという愚昧な制度を利用するからである。現場の失敗は
中枢の失敗である。その報告を速やかに出来ない組織は、いずれ大問題を引き起こす。

人体は、炎症が起こった一部も自己である。だからこそ、全体を守るためシグナルを
中枢に送る。組織の現場が昨今、派遣やパートやバイトになっているのは当然の事。
これらの人々は問題があった時、組織の問題として捉えないだろう。なぜなら、
そんな役割を求められていないからだ。だから、昨今の組織は現状把握のセンサーを
断ち切っているようなものだ。アホノミクスが推進する非正規雇用化はこれに拍車を
かける。そして組織はせっかくの問題把握と対策機会を失うのである。

話を戻そう。人は始めたことをやめられない。やめる事を良しとしない。
だからいつまでも、どこまでも、決定的に崩壊するまで続けてしまう。
まさに、日本中のあらゆる問題はここからくる。問題点が明らかでも、それで
生活をするとなると、正義や長期的利益よりも、近視眼的な利益を追い求める。
結果、問題を放置し、なすすべがなくなるのだ。

以前にも書いた。アホノミクスによって株価があがったり、雇用の改善があったり、
金持ち優遇になったり、いささかの良い点に目がくらんで、なぜそれが出来ている
かにまるで気が付かない愚昧な大衆。今回の選挙も自民がそれなりに議席を確保
するのだろう。そして、日本という泥船は進んでゆく。すでに膨大な借金を国は
抱えてしまった。ギリシャやイタリアの比ではない。事実上、もう返せないくらい
だ。いやいや景気も6年前に比べればいいじゃないか?現状がよくなっている?
バカな!!

厳密ではないが、家庭における比喩ならば、月50万円の収入なのに、90万で
暮らす家のようなものだ。40万円の借金は国債という借財で賄う。それがもう
当たり前になってしまった。この数年間で国は金を作りまくった。つまり円の価値は
ぐっと下がったのだ。あとは、どこかで円安が止まらなくなり、インフレが始まり
制御不能になるかである。国はインフレにして借金を棒引きにするつもりかも
しれない。だが、庶民はインフレで財産を失う事になる。銀行に金はある?
まさか、もし財政が立ち行かなくなれば、預金のアクセスは断たれるのだ。ギリシャ
をみればいい。銀行にいっても金を下ろせないのである。そういう時がいつ日本に
来るのか。

それは、今の政権のやっている出鱈目な金融政策のせいだとここに記す。
いいだろうか、再度いう。日本にハイパーインフレや財政破たんがある
ならば、それは安倍晋三が行ったアベノミクスなるリフレ派による国家転覆事件
であると明記しておく。決して、先の民主党政権のせいでもなければ、その後に
現れる新政権のせいでもない。橋本ー小泉ー安倍と続いた自民党が行った一連の
日本改造が破たんをもたらしたとなる事を予言しておく。

そして、そういう人々を支持し続けた高齢者、団塊世代の責任であると。
目先しか考えず、自分たちが良ければそれでいいと考えたのはまさに今の大人
たちである。年金にしても、消費税にしても、すべて彼らにとって有利なもの
になっている。現代の若者は搾取されるのみだ。世代間論争は不毛だが、仕方ない。
今後は益々問題となる高齢者問題。これもまた目をつぶって見ないフリをする問題
の一つだ。それは年金問題ともつながる。事実上破綻している年金制度。これも
また大問題を引き起こすだろう。

つまり日本の政策全体がもはや頭打ちになっていて、問題は解決されないで放置
され続けているのである。そうして見ないフリをして自分たちが死ぬまで持てば
良いと無責任を貫く。そんな輩たちがのさばっているのが現代日本である。そして
そんな連中を支持する愚昧な老人たち。そして若者たち。

止める事、引き返すこと。いつでもできたはずだ。自分たちが損をしても、
長期的には有益であると判断できれば。だが、自分の損を毛嫌いするために、
問題を先送りにし、破たんしてから、犯人探しをする。この国はまるで変わらない。
今度も結局そうなるだろう。勿論犯人は、リフレ派の連中であり、それを支持した
愚昧な国民である。

いつでも引き返せる。そのために損を引き受ける覚悟が必要であり、勇気が必要だ。
現状維持のため、今日も借金を続ける政府。それを破綻覚悟で続けさせる経団連。
そうやって自分たちの生活を守ろうとする大企業の人々。そのおこぼれにあずかる
中小企業の人たち。これは誰のせいでもない。あなた方の問題なのである。

引き返す勇気をもつ。それがこれからの希望なのだ。どんなに生活が貧しくとも
前向きに生きられると証明する。そういう気概を大切にしたい。


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